鼻炎かな? と思っていたら風邪っぽくなった。昨晩かぜ薬と鼻炎薬をこれでもかというくらい投与したのだけど効果は感じられない。パブロンを飲むと眠りが浅くなる。そのせいで早く寝たわけでもないのに朝5時に目が覚めてしまった。朝から喉が痛い。そんな時間に起きても手持ち無沙汰だから本に手が伸びる。『変態性欲心理学』。とんでもないタイトルだ。しかし侮ってはいけない。かの大谷崎や大乱歩に衝撃を与えたという変態性欲界の古典である。本書をひもとくと変態のみなさんが八面六臂の活躍をしている姿が繰り返し現れる。一言で言えば変態さんの症例集なのだ。面白くないわけがない。フェティシズム、サディズム、マゾヒズムホモセクシャルペドフィリア等々が網羅されている上、さらに興味をそそるのが性に直接的には関わりのない精神病理、つまりうつ病だのヒステリーだのにまで言及してある。人間の隠された心理を愉しむにはうってつけの本である。

 そんな本を平日の朝っぱらから読んでいたら眠くなってきた。なので寝た。起きた。頭がぼーっとしている。こういうとき世界を外から覗いてる感覚になる。風邪をひくことにメリットがあるとすればこれくらいだろう。この状態のとき、普段自分だと思っている体は自己と分離している。その体がゲームのキャラクターのように感じる。責任のような重たいものをほとんど感じない。世界がふわふわしている。建物や机などのあらゆる角が心なしか丸くなっているようにも感じる。うっかりどこかに手足をぶつけたとしてもそんなに痛く感じないんじゃないかと思う。この視点を維持したいと考えているのだけどなかなか難しい。風邪は風邪としてちゃんと体調の悪さを感じているからもちろん楽なわけではないが、体調が良いときにこの視点でいられたら何でもできそうな気がする。

朝までの旅人

 ぼくはぼくが知っていることだけが世界だと思っている。生まれてから死ぬまでぼくはぼくが経験できることの中でしか生きられない。ぼくはぼくが感じること以外の何物も感じることはできない。当たり前ですが。

 天動説が当たり前だった時代の人にしてみれば、たしかに頭上の天球が動いていたのです。彼らにとって地動説なんか冗談の一種です。地面なんかが動いてたまるか。緯度、経度、国、住所がちゃんと定まっているんだ。「ローマは一日にしてならず」どころの話ではない。地面が動いていたらまず追いつかなくてはならない。そうしたら「ローマは永久に追いつかず」という話にもなってくるじゃないか。という考えの人もいたに違いありません。

 いま現在は地動説が主流のようですが、いつまたひっくり返るかわかりませんよ。ダークエネルギーが満ちた宇宙空間に地球などといういびつな球体が自転しながら浮遊していて、さらに太陽の周りを回っているなどという話を本当に信じているんですか。「おいおい寝て起きたら違う場所にいるのかよ」という感じで千年前なら完全におとぎ話ですよ。だからぼくは信じているんですけどね。ロマンがあるじゃないですか。人間の予想なんかはひとつ残らず裏切っていってほしいですね。実際のところ誰も本当のことなんか知りたくないんですよ。目の前の本当のことを誰も信じないでしょ。本当のことなんかより面白いことを求めているんです。寝て起きたら違う場所にいた方が面白いじゃないですか。ということは実際に違う場所にいるんですよ。そもそも自分と太陽の位置関係で朝だとか夜だとか言ってるだけですからね。地動説なんだから朝は「朝」っていう場所にいるんです。夜は「夜」っていう場所にいるんです。同じ場所にいて暗くなったり明るくなったりしている方がおかしい。天動説を信じてるわけじゃないならなおさら。朝が来るんじゃない。自分が行くんです。

 ぼくの知っている世界は概ねこのような設定で動いています。設定はぼくが決めることができます。言ってしまえばいわゆる観念だとか常識だとかそういうのが世界の設定です。ぼくが信じ切れる限り世界はそのようにあります。「自分はいま悲しい気持ちだ」と信じ切れるなら何もなくたって悲しいんです。なぜわざわざ悲しくなるのか。だって人間です。悲しい。

 ハロー、ぼくのことばが届く人。きみは選ばれた存在です。この文字を読むためにあらゆる条件をクリアしています。おめでとう。それ以外の人の世界にはこの文字列は存在しません。なんてね。地動説時代の狂人はこんなことを考えていたよ。いたんだよ。

汝の泥棒を愛せよ

 船っていいなあと思う。水の上をぷかぷか揺れている姿のあどけなさ。近くに寄ってこられたらちょっと遠慮するけど、沖の方で小さくなっている姿はいかにも牧歌的で平和そのもの。
 船の上にいるニワトリはもっといいなあと思う。いま自分は途方もない海の上にいるんだということを知らないで平気そうな顔をしている。人間たちが当たり前だと思っていることを、こいつは何も気にしない。だから何を目撃しても動じない。何を聞かれても聞こえないふりをしてやり過ごす。理解していないだけ、という意見はごもっともなのだが、ニワトリに意見をうかがう人間の方もなかなかのものだ。
 そんなわけでニワトリに話しかける泥棒っていいなあと思う。「おまえ見てただろう」なんて問い詰めて、もしニワトリが人間の言葉でしゃべりだしたらどうするつもりなのか。


 この船上に漂うどこか滑稽なフィクション性は愛すべきものだと思うのだけど、現実感をもった時点でそれもすべて台なしとなる。よいと思えるのは遠く離れているときだけだ。遠くの出来事は目をそらすだけでまるごと全部なかったことにできる。要するに大事なのは距離感なのだ。二千年の昔から「汝の隣人を愛せよ」などという言葉が残っているのは、それが非常に難しいことだからだ。近くの他人より遠くの泥棒である。まずは泥棒を愛せよ。汝の泥棒を愛せよ。

 仮にぼくがこの船に乗ったとしたら、船酔いはするわ屈強な海の男がむさ苦しいわで、どこか涼しい隅の方でぐったり横たわっていることだろう。そのうちニワトリも床と人間との区別がつかなくなってぼくの顔を踏みつけて渡るだろう。泥棒はもともとニワトリと人間の区別がついていないからぼくをニワトリだと思って話しかけるだろう。「半分やるから見たことは黙っててくれ」と言われたところでしゃべる気力すらない。こんなことは考えるだけで嫌だ。

 しかしぼくは彼らにとって完全に上位世界の存在である。彼らが存在する世界まるごとぼくがたったいま作ったのである。だから泥棒がなぜわざわざ逃げ出すことのできない船の上で盗みを働いたのか、その理由だってぼくは知っている。実のところ彼は船上で唯一のぼくの友人なのであって、ぐったりしているぼくのためにだれかの荷物から酔い止めの薬を盗み出してきたのであって、「半分やるから」などという言葉がじつは照れ隠しだったなんてことでさえぼくははじめから知っていたのだ。それでもぼくはあくまで上位世界の存在なのであって、話が終わったら帰らなくてはならない。ああ、泥棒から贈られる薬はさよならみたいな味がしますね。

ロマンスの神様

 どうやったらこの暑さの中で雪女を保護できるだろうか。個人的には夏はわけもなく好きなのだ。だけど思うのは雪女のことである。彼女は生き延びねばならない。巷では夏は怪談の季節ということになっている。科学的根拠だの論理的整合性だのを殊のほか気にする人間たちが暑さにやられて頭が弱りだしている間に楽しむのが怪談というわけだ。雪女としても怪談というカテゴリからはみ出しているつもりはないだろう。しかし雪女は冬の季語なのだ。夏ではない。

 弱体化してしまっている夏に登場するのは雪女としても不本意だろう。そりゃコンビニでアイスも買ってしまうだろう。やたらフレンドリーな店員に「手が冷たいですね」「冷え症なんです」なんて心にもない会話までさせられて、それでアイスを買ったはいいけど外は暑くて出られないので適当な本を立ち読みなんかしてるとまたさっきの店員が話しかけてきてつらい。「こんな暑いなか仕事なんかしてられるか」という気持ちもあるが、ビデオカメラに映り込むのが得意な若造どもの活躍ぶりが各種メディアから飛び込んできて劣等感に苛まれる。広瀬香美の歌を聴いて「目立つにはどうしたらいいの」なんて歌詞に共感してみたり、「わたしだって冬が来れば……!」などと言ってなんとか夏を耐え忍ぶということも飽きるほど経験しているが、いざ冬になると人間たちの頭から怪談なんてものはすでに消え去っていて、ということはつまり語られる側は存在できないということだから、結局活躍することはできない。それならつらい夏が来る前に死んでしまおうかと思ったことも一度や二度ではないが、踏ん切りがつかないまま今年もまた暑くなってしまった。そんなことを考えてたらすっかりメンタルがやられてしまって、ここ最近ついに精神科の世話になったとかならないとか。

 ここまで書けばわかったでしょうか。

どうやったらこの暑さの中で雪女を保護できるだろうか。」

 この一文がすでに詩でありました。

神様は見てるよ

 植田真梨恵さんのことばかり考えてしまう。いま一番興味のある女性シンガーソングライターです。去年メジャーデビューしたらしい。

 シンガーソングライターって好きになる観点がいくつかあって、歌メロだったり歌い方だったり歌詞だったり声だったり。その辺りの観点を基準にぼくがある歌手を好きになるパターンをちょっと書いてみる。

 歌メロは聴くきっかけになりやすい。けど、その人に固有のモノではないので、その曲が好きになることはあっても、まだその歌手を好きになるところまではいかない。

 歌い方は上手いとか下手とかでは全然聴いていなくて、感情が乗っている感じがすればぼくにとっては魅力的。歌い方がグッとくる感じだったら、歌詞にもリアリティーを感じることが多くて心に残る。この辺りでその歌手に興味が湧きます。

 歌詞はわりと気にする。歌詞が良くないと思ったら歌メロまで色褪せてきてしまう。途端に興味がなくなってしまう。

 最後に声。これはまさにその人に固有のモノであって、好きになってしまったらずっと好きなんだと思う。でもわりと融通が利く点でもある。というのもはじめは変な声だなと思ってても聴いている内に慣れてくるから、声が好みじゃなくても好きになることがある。

 そんな感じなのだけど、声が好きだってなったのは今まで清春さんひとりだけだった。そこに植田真梨恵さんが入りそう。youtubeで聴いてるばっかりなので歌詞はそんなに知らないけど、言葉の選び方もわりと好きそうな気がする。歌メロと歌い方は好き。「心と体」の振り絞る感じも「ザクロの実」の繊細な感じも良い。かなり興味がある。早くCDほしい。

 


植田真梨恵「未完成品」PV - YouTube


植田真梨恵「心と体」PV - YouTube


植田真梨恵「ザクロの実」PV - YouTube

クローゼットダーリン

 クローゼットに彼氏を入れていけないという決まりはないので、とりあえず入れておく。翌日、洋服を選ぼうとするとそこに彼氏がいて、だけど今日はそういう気分じゃないから一人で出かけることにする。みたいな人が意外と居るのが上流社会なわけですが、土台はすべてmoneyでしょうね。円だかドルだかユーロだか知らないけれど、金銭がいくらあろうと自分で何かしないと退屈なものは退屈だろうと思います。だからクローゼットに入れる彼氏も一人じゃ全然足りなくて、天才子役から元首相まであらゆる彼氏を揃えておかなくてはいけない。という母親の差し金があってクローゼットがいっぱいになっている年頃の娘が「どうしてあたしの部屋に知らない男をこんなにたくさんいれてなきゃいけないわけ!?」とついに当然すぎる反抗を見せ、そこで遅ればせながら娘の部屋に男がたくさん潜んでいることを知った父親が激怒して街に放たれた野良彼氏の群れが行き場をなくしてうろついているのを不審者として通報されてしまったのだけど、そこは世間の目を異常に気にする母親の選んだ男だけあって、容姿も能力も家柄も人並み以上どころではない彼ら。なんだかんだで安定した生活を取り戻したかと思えば、オリンピックに出る者、長者番付に載る者、ノーベル賞を取る者などなどそれぞれが一定以上の成功を収めていた。

 一方あれ以来家出をしていた娘は、友人の家を転々としていた。親がただならない金持ちだけあって子供のうちからとんでもない残高の銀行口座を自分用として与えられ、自由に使っていいことになっていたのだが、一人でホテルに泊まってるよりも友人と遊び歩きたいというのが若者の素直な気持ちなのであって、親の監視の目も金銭の不自由もない彼女にしたら当然の選択だった。ただし泊まらせる側の娘はそのどちらもあったので毎日彼女に付き合うというわけにはいかなかった。そんなわけで「あたしはみんなとは違うんだ」という一抹の寂しさを感じずにはいられず、それをごまかすように過去のクローゼット彼氏たちを憎んでいるうちに立派な男嫌いに育っており、テレビやインターネットなどで彼らの姿、彼らの名前を目にするたびに生理的嫌悪感を催している。

 そんなある日やっとのことで娘の居場所を突き止めた母親が、今一番世間的に輝いている元クローゼット彼氏のサッカー選手を連れて、彼女が泊まっている友人の家に乗り込んできた。「栄ちゃん、ママよ! 栄ちゃんにぴったりの彼氏連れてきたわよ!」などと大声を上げる母親の声とドアを乱暴に開ける音が聞こえる。

「栄子、お母さん来ちゃったよ、どうする?」「とりあえずクローゼットしかないでしょ」

 娘はクローゼットに入りながら友人までそこに引っ張り込んだ。クローゼットの中にいても「栄ちゃん、ママよー! 出てきてちょうだい!」などと聞こえてきて、恥ずかしいのと友人に申し訳ないのと母親への反発心とが狭いクローゼット内の息苦しさと混ざり合って、ある気持ちが芽生えた。男なんかより女の子のほうがいいに決まってる。

「桜子、あたしをクローゼットで飼って」

10月60℃説

 本日の最高気温30℃(東京)。誰のせいでこんなに暑いのかしらないけれど、「寒いのよりはマシ」というマントラを唱えながら一日を過ごしています。5月で30℃なので10月には60℃くらいになってしまうなと言ったら馬鹿にされるでしょうが、たかだか100年かそこらの気象観測データしか持っていない人間風情がどうしてそうならないと断言できるのでしょうか。つい7億年前には地球全体が完全に氷で覆われていたのです。そんなことになったのも驚きですが、そこから今のような状態になったのも驚きです。常識はいつの時代も覆されるのを待っているのです。
 近所の小学生に10月60℃説を真剣な面持ちで吹聴すると、ちゃんと理解を示してくれます。偏見のコレクションで堅苦しい考えしか持てない大人たちなんかにはないアイデアが出てきます。なんのアイデアかというと、60℃になってもつらくない環境づくりだったり、適正の気温に戻るまでコールドスリープする技術だったり、いっそのこと人類の歴史を終わらそうか?といったようないろいろです。いま判明している地球の環境変化の歴史だけでもとてつもないスケールの変動があります。自分の狭苦しい常識からちょっとでも外れたことが起こるとすぐ異常気象だ、天変地異だ、といって騒ぐ視野狭窄どもには一度落ち着いて自分が地球の一部であることを認識していただきたいものです。地球の一部であるわけのわからない液体から這い出してきた生物の子孫であるみなさんは死んで再び地球になるのです。

 むかし流行ったノストラダムスの悪ふざけだって結構な経済効果を発揮したのだから、ぼくの悪ふざけだってみなさんが本気を出せばわりと貨幣の流動性を刺激できるのではないかと思います。それに向こうはただのうわごとでしたが、こっちは説明すれば小学生でも理解できる程度の数学を根拠にしているのです。5:30=10:x。

 そんなわけで、なにも考えずに文章を書くとこうなります、という例でした。なお近所の小学生は架空の人物です。