なんで生きてるのかわからない人へ

給料の使い道を誰かに教えてもらう?

「人生に目的などない」などと声高に語りたがる物知りの馬鹿どもは自分が生きているということを考えたことがないのだと思う。「人間*1」とかいう現実に存在しない机上の生き物をこねくり回してやっと編み出した「人生には目的などなかった」という当然すぎる結論に愕然としている姿は単純に笑っていいのか頭の健康を心配したほうがいいのか迷ってしまう。人生の目的などという疫病が他から与えられてたまるか。自己を所有していないからそんなべらぼうが飛び出すのだ。きみが働いて得た給料の使い道をぼくが決めてしまっても良いのか? きみたちはそういうことをやっているのだ。自分で自由に扱えるものの使い道を他人に教えてもらう必要がどこにある。だいたい「人生には目的が与えられているはずだ」ということをナチュラルに前提にしてしまう人が無神論者を自称するのもおかしいのだけど、どういう構造か両立できている人類が多いように見える。たいしたバランス感覚である。

解答

 では早速「なんで生きてるのかわからない」という人に答えをあげます。あっさり言いますが、享楽するためです。意識が宿ってしまった以上、それ以外はありえない。迷う必要も考える必要もない。「人それぞれ」とかいう日和見主義の模範解答は「具体的に何をすればいいのか?」という個別化した問いに与えられるべきである。もちろん「どうしておまえの事柄をぼくが答えられると思うのだ」というニュアンスをふんだんに盛り込んであるのは言うまでもありませんね。

 そんなわけで、楽しくなければ生きてたってしょうがないわけです。じゃあつまらないから自殺しようとなる人は、まったく誤解している。楽しいことをやれと言っているのだ。自殺は楽しいか? 自殺が楽しい季節がやってきたらぼくもやらないわけにはいかないが、どうもまだそんな時期は来ていないように見える。

ありがちな状況

 しかし、何をすれば楽しいのかがわからない状況はありがちだ。そして、そんな時に限って頭の中がごちゃごちゃとして雑念が脳髄の四国をお遍路参りしているというのもありがちだ。この場合、まず何もかもを諦める必要がある。世界のすべてに幻滅する必要がある。この先に良いことなどひとつも起こらないということを徹底的に理解する必要がある。そのあとで、思考は一点に向かうはずだ。存在のゼロ地点、すなわち「なぜ生きているのか?」。ここで、先ほどの明快すぎる解答をその思考に与えてやるのだ。「楽しむためだ」と。そこで余計なものをたくさん抱えていたことに気づくだろう。親の期待、過去の出来事、将来の不安、エトセトラ、エトセトラ……。それらがどうでもいいと思えた時、自由になれる。一回じゃ足りないかもしれない。回数を重ねるたび楽になっていくだろう。少なくともぼくは順調に楽になっている。のらねこは日々近づいてくる。大事なのは結論を受け入れることだ。放っておけば思考はいつまでも徘徊を続ける。その間ずっと疲労は蓄積される。思考を中止することだ。いくら考えたって、できないことはできない。なるようにしかならない。

ルールについて

 現代社会に蔓延しているルールの中でもわりと強力なものに法律というものがある。法律が絶対などと考える混乱したホモ・サピエンス*2などはまさかあるまいと思うが、ルールを変えることまで反則だとする刷り込みは珍しくないようで、権威を親だと思ってついていっちゃうひよこが後を絶たない。が、まったくそんなことはない。法律など邪魔になったら変えてしまえばいいのだ。簡単に言うなよと思われるかもしれないが、それが簡単でないなら簡単なことをやればいいのだ。何も手段は一つではない。目的は生の享楽なのである。それが出来るなら何だって良い。それこそ社内政治に躍起になってるような気の毒な人でも本人が楽しいならそれでいいわけだ。好きなことをやればいい。悪いことなどはない。

 すべてはのらねこの遊戯なのだ。

おわりに

 性格の悪いやつの文章はこんな感じです。手始めにまずこの文章とぼくへの幻滅をどうぞ。

*1:もちろん実在する個人ではなく、概念としての人間のこと

*2:

Homo sapiens は「知恵のある人」という意味である。

ヒト - Wikipedia

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

 

 一冊だけ挙げるとなるとこれをおいて他には考えられない。というのも、影響を受けた本はことごとくこの本で引用ないしは言及されていたもの、あるいはそれから派生したものばかりだからだ。

 加藤郁乎も辻潤もこの本で知り、現在もその両名には興味が尽きないし、郁乎からは俳句や詩、辻からはシュティルナーやダダへの関心を育んでもらった。いま最も関心があるのはダダの創始者であるトリスタン・ツァラであるが、これからダダ・シュルレアリスムの芸術全般(文学・絵画はもちろんダダとして紹介されることの少ない音楽も)に手を伸ばそうと思っている。

 この本との出会いがなかった場合のことはもう想像もつかない。それくらいぼくの中で大きな位置を占めている。

演劇としての社会

 人間の世は演劇です。就職すると分かりやすい。上司と部下。いったん立場が定まってしまったら上司は上司らしく、部下は部下らしく振舞うようになる。スタンフォード監獄実験*1そのままです。被験者に内緒で実験に参加させているようなものです。とんでもない話ですね。

 会社だけではありません。家庭も学校もそう。その舞台を息苦しいと感じる人が家出をしたり不登校になったりニートになる。演技の苦手な人がコミュ障の自覚を持ちます。俗世間での人間関係は大部分「役」に依存してるんです。自分だと思ってる人格でさえそう。「自分はこういう人間だ」という自己イメージがすでにひとつの役になっている。人間が正直に生きようとすればそれすら脱ぎ捨てていかなければならない。

 「天上天下唯我独尊」という言葉があります。なぜか世間では曲解されていますが、決して悪い言葉ではありません。むしろ腕にでも彫って忘れないようにしたいくらいです。分かりやすく言い換えると「ぼくはぼくだけであり代わりはいないのだ」というほどの意味になります。これが本来の自分です。たとえば「A君の彼女」には代わりがいます。「B社の社員」には代わりがいます。そんなものをアイデンティティにしてはいけない。それらは外部の属性であり「役」でしかない。役に依存していると義務が増えてきます。やりたくないこともやらなくてはいけなくなる。「わたしがA君の彼女だ」という表現は一般的ですが、「わたし」=「A君の彼女」ではないので混同してはいけません。それは役なんです。いわば「わたし」が「<A君の彼女>という服」を着ているようなイメージです。どの服を着るかは自分で決めるんです。代わりのいない「わたし」として生きるんです。

 昨日好きだった人を明日は好きじゃないかもしれない。当然の話です。そんなの不誠実だとお思いの方、不誠実というのは好きじゃなくなったのに好きなふりして付き合い続けるあなたたち演技者のことです。ぼくは昔あんぱんがすごく好きでいつも食べていましたが、あまりに食べ過ぎたためか食べられなくなった時期がありました。同じです。きのうのぼくはもういません。「すごく好きだった」ことと「いまは食べられない」こと。どちらも本当のことです。それを「あんぱんが好きなぼく」の自己イメージを引きずって無理して食べようとすると演技になってしまう。嘘になってしまう。本当のことを実行するには舞台を降りないといけない。舞台を降りたところで付き合ってる恋人やら友人やらはきっと長続きすることでしょう。そういう人と巡り会えるのは素敵なことだと思います。

 生まれて間もなく「天上天下唯我独尊」などと口走った釈迦も、「自然に帰れ」のロマン主義も、ぼくが最近言い出した野良猫思想も、どれも似たようなものです。「正直に生きよう」と言っているだけなのです。野良猫思想はすべての演技から解放します。ぼくは正直に生きたい。

*1:

被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。

スタンフォード監獄実験 - Wikipedia

 

すべての書物を読んでしまった

自我は真理以上である。真理は自我の前には何でもない。

 このシュティルナーのことばを見た瞬間、憑き物が落ちたように読書という地獄から解放された。二十歳そこそこで読書の味を覚えてから約十年もの間、ほぼ毎日読書に時間を費やしていた。はじめはそうでもなかったのだけど、いつの頃からか意味のある読書にこだわるようになった。「あー楽しかった」というだけの読書では物足りなくなっていた。

 ぼくは知らず知らずのうちに「どうやって生きたらいいのか」「なにをするのが正解なのか」を求めていたのだと思う。だけどどの本にも求めていた正解はなかった。それらしいものはあったけど、どうもうまく扱えなかった。振り返るとどれも「色即是空」としか書かれてなかった。シュタイナーから見たらそうなんだろう、サルトルから見たらそうなんだろう、ニーチェから見たらそうなんだろう、バタイユから見たらそうなんだろう、もう全部これ。彼らの観念、彼らが見た<色>でしかない。それを理解したところで、もしくは理解できなかったところで、何が変わるだろう。すべて<空>である。内容なんかなんだってよかった。確かなことは、著者も登場人物もぼくとは違う存在であるということ。その大前提だけだった。つまり本から読み取れるのは「おまえはおまえの生き方を生きろ」ということでしかなかった。まだ読んでない本も、まだ書かれてない本でさえも、ぼくとは別の存在が書いている時点で同じことである。というわけで、ぼくはついに「すべての書物を読んでしまった」ことになる。

 そのあたりのことが冒頭のシュティルナーのことばでやっと自覚できたというわけだ。少し説明すると、<自我以前にはなにも存在できない。真理だろうが神だろうが自我があってはじめて成立するものである。自我が「認めて」はじめて成立する。自我がないところに真理などありはしない。他の何物もありはしない。自我がすべてである>。こんな感じである。

 これからは好きなことばを探すことはあっても、正解を求めて読むことはないだろう。意味を求めて読むことはないだろう。ぼくはやっと真理から解放された。

苦悩はすべて猫に弟子入りせよ

 我輩は猫の弟子である。名前はまだ捨てきれてない。猫にとって「ない」のはなにも名前だけではない。過去も未来もない。国家も道徳もない。宗教も戦争もない。自分自身の価値などを考えたこともない。「社会の役に立たなければ」だの「誰かに認められなければ」だのそんな観点がまずあり得ない。したがって自己について悩むこともまたない。労働もない。生活が立ちいかなくなるということもない。その上わざわざ家賃などを払って狭い家に住むなどということに至ってはまったく理解ができない。金など払わなくとも、そこらじゅう世界のすべてが自分の家であり、自分の遊び場であり、自分の墓場である。金を払うべき理由はどこにもない。払うべき相手も思いつかない。どこの恥知らずが当たり前のような顔をして金を受け取っているのだろう。だいたい自分がどこで生きようがどこで死のうが知ったことではない。ウロウロして出くわした相手が金持ちだろうが浮浪者だろうがどうでもよい。餌をくれるなら寄っていくだけであって、それがロボットでも化け物でも構わない。そもそも出会った相手を人間だのゴミ箱だのと区別することもない。すべては自分とそれ以外で事足りる。自分以外の一切が無である。生は享楽するものである。マックス・シュティルナーが「私の事柄を、無の上に、私はすえた」と言っている。辻潤は「私は自分の生命のままにただ生きる」と言っている。これらはまさに猫の生きざまである。社会という亡霊、他者という地獄に取り憑かれた人間はすべて猫に弟子入りすべきである。神もなく主人もない野良猫的ニヒリズムに陶酔すべきである。ぼくはぼく自身になりたい。

ウイルスちゃん

 まぶたの裏側をじっと見る。おそらくこれをやったことのある人はそれほどいないのではないかと思う。目を開く。見える。目を閉じる。見えない。本当でしょうか。では目を閉じて太陽を見上げましょう。まぶたの裏側が赤く見えていますね。目を閉じていても見えていますね。こんな簡単なトリックに誰もが引っかかっているのです。「目を閉じる」という言葉は日常言語であるわりに幾分比喩的な表現であって、ここにその錯覚の原因があるように思います。誰でも知っている当たり前のことをあえて書きますが、実際には目ではなくまぶたを閉じているのです。網膜に射し込む光を遮断しているのです。眼球を閉じることはできない。まぶたを閉じていても眼球はそこにある。至近距離でまぶたの裏側を見ている。

 光が遮断された状態では像は結ばれない。先ほどの実験では太陽という光度の高い光源によってまぶたの裏側が透けましたが、それほど強烈な光がない場合は何も見えません。というのもまた誤り。暗闇が見えているのです。だれも見向きもしない暗闇がそこにはあるのです。

 光の射さない黒目とまぶたの裏の関係性。ぼくはその暗闇を楽しむ。まぶたの内側はぼくだけの場所だ。

「まぶたの、
 外側でせかいは構築されるからね。」*1

 まぶたの内側から世界を覗いているぼくは世界の外にいる。最近は「世界の外にいるぼく」でいられる瞬間が増えてきている。

*1:暁方ミセイさんの処女詩集『ウイルスちゃん』収録「生物」より。

ウイルスちゃん

ウイルスちゃん

 

 

 走ることにした。気分屋(気分障害のかわいい言い方)なので突然です。就寝に失敗して夜更かししてしまったときのわけのわからないテンションで、「寝て起きたら外を走ろう」などと思いついて電気を消したのが午前4時。それから約一時間が経過した5時過ぎ、なんとそこには元気に走り出すぼくの姿が! 完全な躁状態。大変なことです。しかし主観的には楽しいのでよしとする。

 iPhoneからイヤホンを伸ばして、たらたら走った。BGMは五代目古今亭志ん生志ん生のおかげで気が紛れたのか、意外と疲れないもんだなと思った。とはいえ短い落語二席分、たかだか30分にも満たない時間だから当たり前なのかもしれないけど。

 コースは当初決めていた公園はやめて、通ったことのない道を選んだ。もうこの辺りに住んで丸四年経つけど、知らない道はずいぶんある。あえてこういうことをしないと同じ道ばっかり通ってしまうから、見慣れない景色が新鮮だった。

 何かを期待して走るわけじゃないけど、気持ちよかったからなるべく続けようと思う。(Bluetoothのイヤホンやらランニング用のシャツやらAmazonで買ってしまった。)