黒いユーモア選集 上巻
《知的なユーモアが爆笑に変えてしまうことのできないものは何もない。虚無さえも爆笑に変えてしまう。……笑いは、人間の、放恣にまで至る最も豪奢な浪費の一つとして、虚無とすれすれのところにあり、われわれに担保として虚無を与える》*1
ブルトン編『黒いユーモア選集』の上巻を読んだ。例によってブルトンお得意の奥歯にねずみが挟まったような気が散った文章で<黒いユーモア>が結局何だったのか判然としないけれども、上に引用した誰の言葉だかわからない文章*2からしてすでに健全な笑いでないことがわかる。爆笑という語はこの場合、訳として不適当な印象を受けるが、健全な、つまり明るい笑いには照らすことのできない暗がりにまでマッチ売りの少女が火にみた夢ほどの笑いを持ち込むことはできるだろうことは容易に想像がつく。<黒いユーモア>ということばについては、ユーモアが知的になればなるほど白痴に似てくるところに生じる笑いのことなのだろうというあてにならない第一印象でひとまず適当に納得しておく。
意外と有名な作家が並んでいてその半数近くが親しみ深い名前だったため目次を見たときにはなんとなしに高揚した。シュルレアリスム以前の作家ばかりで作家同士の共通項もシュルレアリスムとの関連も一見してなさそうに思えるのだが、読んでみるとシュルレアリスム的な抵抗精神の背骨がうっすら見え隠れしていた。それでもボードレールとフーリエとニーチェを同じ括りで語りうるというのは新鮮だった。
しかしそのわりに全体の印象としてはたいしておもしろくなかった。少なくとも目次を見たときに抱いた期待値にははるか及ばなかった。それでもスウィフトやリヒテンベルク、フォルヌレ、アレーあたりを読んでいるときは口角から幸せがにやついて溢れてきたし、いま書きながら聴いているベートーヴェンのピアノ協奏曲*3からもくすぐられるようなユーモアの伴奏がサブリミナル的に聴こえてきている。そんなわけで、虚無が堂々と同じ晩餐の席についているようなぼくのこの薄暗い世界も相変わらず黒いわりには幾分ぶよぶよしてきたようなので、予定通り下巻も読むことにする。
*1:
*2:引用した箇所に続けて「と言った者がある。」と書かれているのみ。誰の言葉かは明記されていない。
*3:聴いてるのはフライシャーの方だけど、動画のアバドの方でいうと9:30あたりでなんだか愉快になった。そのあとも何箇所かあった気がするが全部は覚えていないので割愛。
ベートーヴェン: ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15 ポリーニ / アバド / ベルリン・フィル
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全集、モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番
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悪の哲学
レフ・シェストフの『悪の哲学』*1がのらねこ本*2だったのでメモ。
この本でロシアの哲学者シェストフは、ドストエフスキーとニーチェが辿ってきた人生や著書を元に彼らの思想を論じている。両名には、人生の前半において一定の成功を収めつつ順調なスタートを切り、その後ある時期を境にそれまでの自己の信念を覆す思想(地下生活者の思想)を持つようになるという共通点があった。ドストエフスキーはおそらく晩年に至っても前半生の思想と後半生の思想とのあいだで引き裂かれたままだったが、ニーチェは地下生活者の思想を自らのものとし、以前の自己の思想につながるものを片端から糾弾した。地下生活者の思想というのは、簡単に言うとエゴイズムであり、本書でも度々引用されている、ドストエフスキー『地下室の手記』*3の
「世の中が消えてなくなるか、それとも、私が、お茶を飲まずにいるか? 私は、世界が消えてなくなってもいいと言いたい。ただ、私がお茶を飲んでいられるのなら……」
という価値観のことである。
「私」がいなければ世界などありえないのだということに一度気づいてしまったら、道徳も科学も宗教も思想もただの玩具に過ぎないことが露見してしまう。信じるに値するものがどこにもなかったのを知った後にまだ生が余ってしまっているような悲劇の人間にかかれば、上に引用したような表現でさえ誇張なく用いることができる。そのような人間にとって世界など知ったことではないのだ。彼にとってあらゆるすべてが彼の上に生じたイミテーションでしかない。一点の曇りもなく心からそう思っているのである。そうでないとしたら「私」が退場した後、世界は一体どこにあるというのだろう?
ドストエフスキーは代表作があまりに長いので敬遠してほとんど読んでなかった*4が、「まんがで読破シリーズ」にあった彼の小説*5をたまたま直前に読んでいたおかげで、キリーロフやラスコーリニコフなどやたらと引き合いに出されるキャラも半分くらいはわかった。語られている人物の心理をひとつひとつ展示するようなシェストフの書き方のおかげで、ドストエフスキー作品のドラマチックさの秘密を少し覗けた気がした。シェストフ自身も悲劇的な語りにかけてはなかなか魅力的だった。
*1:
*2:のらねこ本とは、下記で述べたようなのらねこの生きざまに近似する思想に類する本のことです。
*3:
*4:『地下室の手記』『おかしな人間の夢』だけはずいぶん前に読んだ。
*5:
- 作者: ドストエフスキー,バラエティアートワークス
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ダダとシュルレアリスム
ダダに興味を持ってすぐにシュルレアリスムとは違うこと*1はすぐにわかったのだけど、ではどう違うのか?という部分をうまく説明できることばを見つけることができずにいた。
きのう、半年ぶりくらいに『ムッシュー・アンチピリンの宣言——ダダ宣言集*2』を読んでいたら、訳者解説のなかにブルトン*3についての何気ない記述を発見した。
彼の関心の対象は「無意味」よりはむしろ「無意識」のほうであり、
まさにこれがダダとシュルレアリスムの違いだと腑に落ちた。ダダイストが「無意味」の黴菌を撒き散らすのに対して、シュルレアリストは「無意識」を目指して狂人とともに船出するというわけだ。いやもちろん、それはそれぞれ著作にもわかりやすく書いてある*4のだから知ってはいたし、それ自体特別おどろく話でもないのだが、なぜかそれを対比して考えるということに気がつかなかった。詩でも絵画でも通常は理性において鑑賞する。理性による解釈で評価が決定する。だが「無意味」も「無意識」も理性の介入を避けている。だからこんなに印象が似かよっていたのだ。おそらくシュルレアリスムが形になるまでは当人たちでさえはっきりと違いを理解していなかっただろう。
人としてならぼくはやっぱりブルトンよりツァラの方が好きなのだけど、人がする活動において目的が「無意味」であるというのは致命的で、それゆえダダは短命であった。意味がないということに人は耐えられないのだ。
一方で、シュルレアリスムが目指す「無意識」の領域、そしてそれが生んだ多くの作品群も捨てがたい。ダダとシュルレアリスム、この二つを矛盾なく統合できたらいいのになと思う。*5
*1:名称や規模、拠点や参加者等表面上の違いではなく本質として別物であること。
*2:
ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集 (光文社古典新訳文庫)
- 作者: トリスタンツァラ,Tristan Tzara,塚原史
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*3:シュルレアリスム(超現実主義)を提唱したフランスの詩人アンドレ・ブルトンのこと。ダダ創始者のトリスタン・ツァラをパリで迎えてダダ運動に参加した。チューリッヒから各地に飛び火したダダ運動は、第一次大戦後、ツァラが活動拠点をパリに移してまもなく絶頂を迎えたが、やがてツァラとブルトンの思想のずれが顕在化する。その影響でダダは急速に終息していき、ブルトンはシュルレアリスム運動を開始する。
*4:「☞DADAは何も意味しない」(ツァラ「ダダ宣言1918」)、「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それに基づいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の動きを表現することを目指す。理性による一切の統制を取り除き、美学的または道徳的などんな気遣いからも離れた思考の口述筆記。」(ブルトン「シュルレアリスム宣言」)
*5:もしすでにあったら教えていただきたい。シュルレアリストが老いて権威化したあとで、それに反発してシチュアシオニスム(状況主義)が発生したのは知っているが、その目的・思想が、創始者ギー・ドゥボールの代表作『スペクタクルの社会』を読んでも理解できなかった。ドゥボールとともに活動したシチュアシオニストであるラウル・ヴァネーゲムの『若者用処世術概論』も読みたいのだが、これは未だ邦訳がないため、どなたか翻訳をお願いします。
なんで生きてるのかわからない人へ
給料の使い道を誰かに教えてもらう?
「人生に目的などない」などと声高に語りたがる物知りの馬鹿どもは自分が生きているということを考えたことがないのだと思う。「人間*1」とかいう現実に存在しない机上の生き物をこねくり回してやっと編み出した「人生には目的などなかった」という当然すぎる結論に愕然としている姿は単純に笑っていいのか頭の健康を心配したほうがいいのか迷ってしまう。人生の目的などという疫病が他から与えられてたまるか。自己を所有していないからそんなべらぼうが飛び出すのだ。きみが働いて得た給料の使い道をぼくが決めてしまっても良いのか? きみたちはそういうことをやっているのだ。自分で自由に扱えるものの使い道を他人に教えてもらう必要がどこにある。だいたい「人生には目的が与えられているはずだ」ということをナチュラルに前提にしてしまう人が無神論者を自称するのもおかしいのだけど、どういう構造か両立できている人類が多いように見える。たいしたバランス感覚である。
解答
では早速「なんで生きてるのかわからない」という人に答えをあげます。あっさり言いますが、享楽するためです。意識が宿ってしまった以上、それ以外はありえない。迷う必要も考える必要もない。「人それぞれ」とかいう日和見主義の模範解答は「具体的に何をすればいいのか?」という個別化した問いに与えられるべきである。もちろん「どうしておまえの事柄をぼくが答えられると思うのだ」というニュアンスをふんだんに盛り込んであるのは言うまでもありませんね。
そんなわけで、楽しくなければ生きてたってしょうがないわけです。じゃあつまらないから自殺しようとなる人は、まったく誤解している。楽しいことをやれと言っているのだ。自殺は楽しいか? 自殺が楽しい季節がやってきたらぼくもやらないわけにはいかないが、どうもまだそんな時期は来ていないように見える。
ありがちな状況
しかし、何をすれば楽しいのかがわからない状況はありがちだ。そして、そんな時に限って頭の中がごちゃごちゃとして雑念が脳髄の四国をお遍路参りしているというのもありがちだ。この場合、まず何もかもを諦める必要がある。世界のすべてに幻滅する必要がある。この先に良いことなどひとつも起こらないということを徹底的に理解する必要がある。そのあとで、思考は一点に向かうはずだ。存在のゼロ地点、すなわち「なぜ生きているのか?」。ここで、先ほどの明快すぎる解答をその思考に与えてやるのだ。「楽しむためだ」と。そこで余計なものをたくさん抱えていたことに気づくだろう。親の期待、過去の出来事、将来の不安、エトセトラ、エトセトラ……。それらがどうでもいいと思えた時、自由になれる。一回じゃ足りないかもしれない。回数を重ねるたび楽になっていくだろう。少なくともぼくは順調に楽になっている。のらねこは日々近づいてくる。大事なのは結論を受け入れることだ。放っておけば思考はいつまでも徘徊を続ける。その間ずっと疲労は蓄積される。思考を中止することだ。いくら考えたって、できないことはできない。なるようにしかならない。
ルールについて
現代社会に蔓延しているルールの中でもわりと強力なものに法律というものがある。法律が絶対などと考える混乱したホモ・サピエンス*2などはまさかあるまいと思うが、ルールを変えることまで反則だとする刷り込みは珍しくないようで、権威を親だと思ってついていっちゃうひよこが後を絶たない。が、まったくそんなことはない。法律など邪魔になったら変えてしまえばいいのだ。簡単に言うなよと思われるかもしれないが、それが簡単でないなら簡単なことをやればいいのだ。何も手段は一つではない。目的は生の享楽なのである。それが出来るなら何だって良い。それこそ社内政治に躍起になってるような気の毒な人でも本人が楽しいならそれでいいわけだ。好きなことをやればいい。悪いことなどはない。
すべてはのらねこの遊戯なのだ。
おわりに
性格の悪いやつの文章はこんな感じです。手始めにまずこの文章とぼくへの幻滅をどうぞ。
■
今週のお題「人生に影響を与えた1冊」
一冊だけ挙げるとなるとこれをおいて他には考えられない。というのも、影響を受けた本はことごとくこの本で引用ないしは言及されていたもの、あるいはそれから派生したものばかりだからだ。
加藤郁乎も辻潤もこの本で知り、現在もその両名には興味が尽きないし、郁乎からは俳句や詩、辻からはシュティルナーやダダへの関心を育んでもらった。いま最も関心があるのはダダの創始者であるトリスタン・ツァラであるが、これからダダ・シュルレアリスムの芸術全般(文学・絵画はもちろんダダとして紹介されることの少ない音楽も)に手を伸ばそうと思っている。
この本との出会いがなかった場合のことはもう想像もつかない。それくらいぼくの中で大きな位置を占めている。
演劇としての社会
人間の世は演劇です。就職すると分かりやすい。上司と部下。いったん立場が定まってしまったら上司は上司らしく、部下は部下らしく振舞うようになる。スタンフォード監獄実験*1そのままです。被験者に内緒で実験に参加させているようなものです。とんでもない話ですね。
会社だけではありません。家庭も学校もそう。その舞台を息苦しいと感じる人が家出をしたり不登校になったりニートになる。演技の苦手な人がコミュ障の自覚を持ちます。俗世間での人間関係は大部分「役」に依存してるんです。自分だと思ってる人格でさえそう。「自分はこういう人間だ」という自己イメージがすでにひとつの役になっている。人間が正直に生きようとすればそれすら脱ぎ捨てていかなければならない。
「天上天下唯我独尊」という言葉があります。なぜか世間では曲解されていますが、決して悪い言葉ではありません。むしろ腕にでも彫って忘れないようにしたいくらいです。分かりやすく言い換えると「ぼくはぼくだけであり代わりはいないのだ」というほどの意味になります。これが本来の自分です。たとえば「A君の彼女」には代わりがいます。「B社の社員」には代わりがいます。そんなものをアイデンティティにしてはいけない。それらは外部の属性であり「役」でしかない。役に依存していると義務が増えてきます。やりたくないこともやらなくてはいけなくなる。「わたしがA君の彼女だ」という表現は一般的ですが、「わたし」=「A君の彼女」ではないので混同してはいけません。それは役なんです。いわば「わたし」が「<A君の彼女>という服」を着ているようなイメージです。どの服を着るかは自分で決めるんです。代わりのいない「わたし」として生きるんです。
昨日好きだった人を明日は好きじゃないかもしれない。当然の話です。そんなの不誠実だとお思いの方、不誠実というのは好きじゃなくなったのに好きなふりして付き合い続けるあなたたち演技者のことです。ぼくは昔あんぱんがすごく好きでいつも食べていましたが、あまりに食べ過ぎたためか食べられなくなった時期がありました。同じです。きのうのぼくはもういません。「すごく好きだった」ことと「いまは食べられない」こと。どちらも本当のことです。それを「あんぱんが好きなぼく」の自己イメージを引きずって無理して食べようとすると演技になってしまう。嘘になってしまう。本当のことを実行するには舞台を降りないといけない。舞台を降りたところで付き合ってる恋人やら友人やらはきっと長続きすることでしょう。そういう人と巡り会えるのは素敵なことだと思います。
生まれて間もなく「天上天下唯我独尊」などと口走った釈迦も、「自然に帰れ」のロマン主義も、ぼくが最近言い出した野良猫思想も、どれも似たようなものです。「正直に生きよう」と言っているだけなのです。野良猫思想はすべての演技から解放します。ぼくは正直に生きたい。
*1:
被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。
すべての書物を読んでしまった
自我は真理以上である。真理は自我の前には何でもない。
このシュティルナーのことばを見た瞬間、憑き物が落ちたように読書という地獄から解放された。二十歳そこそこで読書の味を覚えてから約十年もの間、ほぼ毎日読書に時間を費やしていた。はじめはそうでもなかったのだけど、いつの頃からか意味のある読書にこだわるようになった。「あー楽しかった」というだけの読書では物足りなくなっていた。
ぼくは知らず知らずのうちに「どうやって生きたらいいのか」「なにをするのが正解なのか」を求めていたのだと思う。だけどどの本にも求めていた正解はなかった。それらしいものはあったけど、どうもうまく扱えなかった。振り返るとどれも「色即是空」としか書かれてなかった。シュタイナーから見たらそうなんだろう、サルトルから見たらそうなんだろう、ニーチェから見たらそうなんだろう、バタイユから見たらそうなんだろう、もう全部これ。彼らの観念、彼らが見た<色>でしかない。それを理解したところで、もしくは理解できなかったところで、何が変わるだろう。すべて<空>である。内容なんかなんだってよかった。確かなことは、著者も登場人物もぼくとは違う存在であるということ。その大前提だけだった。つまり本から読み取れるのは「おまえはおまえの生き方を生きろ」ということでしかなかった。まだ読んでない本も、まだ書かれてない本でさえも、ぼくとは別の存在が書いている時点で同じことである。というわけで、ぼくはついに「すべての書物を読んでしまった」ことになる。
そのあたりのことが冒頭のシュティルナーのことばでやっと自覚できたというわけだ。少し説明すると、<自我以前にはなにも存在できない。真理だろうが神だろうが自我があってはじめて成立するものである。自我が「認めて」はじめて成立する。自我がないところに真理などありはしない。他の何物もありはしない。自我がすべてである>。こんな感じである。
これからは好きなことばを探すことはあっても、正解を求めて読むことはないだろう。意味を求めて読むことはないだろう。ぼくはやっと真理から解放された。