意味について

 加藤郁乎が牧歌メロンのあとがきで「意味なんかどうだっていいのである」と言っていた。2013年にそれを見て以来、無意味への階段を踏み外しつつ生きてきたわけだが、この辺でもう一度意味について検めることにする。

 本来すべてが無意味なのだ。意味は自分が設定した目的に対してどのように関わりがあるかという色相環に過ぎない。つまり個人的なものだ。「本来無意味なものが個人的にはなんらかの意味を持ちうる」という形でしか意味は発生しない。同じ「無意味なもの」に多数が意味を見出すことができると、その「無意味なもの」に人気が出てくるというわけだ。世の中人気のあるものはいろいろあるけれど、最たるものは貨幣だろうと思う。貨幣には「相応の買い物ができる」という意味を大多数の人が見出している。ではなにも買うことができないとしたら? 多くの人にとって意味を失うことでしょう。でもコレクターなどの好事家にとってはそのゆえにこそむしろ元々その貨幣が持っていた以上の価値があるかもしれない。小さい子供にとっては意味をもつ子供銀行券などというものもあった。

 SMAPの解散でふさぎこむ人もいれば、「君の名は。」で優勝し続ける人もいる。大森靖子の活動に喜びを見出す人もいれば、かれこれ20年近く続いている透牌麻雀*1の進捗を追い続けている人もいる。これらはすべて個人的に見出した意味に過ぎず、興味のない人にとってはそのどれもに意味がない。そして大事*2なのは「すべてが無意味だ」ということではなくて、「意味は個人的なものである」ということだ。

 あらかじめ設定された誰かの意味に従うことが世間では常識的といわれるのだけれど、まさか常識的に振る舞うために生きているのだとは思えないし、そんな風に考えている人はひとりもいないだろうとも思う。そう考える人にとって、あえて常識的に振る舞うことの意味はもうない。

*1:雑誌「近代麻雀」で連載中の漫画『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』内の勝負。

現在連載中の「鷲巣麻雀編」に至っては、作品内の設定では半荘6回の勝負であるが、「鷲巣麻雀編」が開始されてから17年以上経過した現在(2015年現在)でも決着が着いていない。

アカギ 〜闇に降り立った天才〜 - Wikipedia

*2:自分が迷いなく生きるために大事だということ

関係性について

 これほどまでに「死にたい」という言葉がありふれている世の中でまだ「おまえはひとりで生きてるとでも思っているのか」などとのたまう人間があるが、ひとりで生きていると思っていない輩が社会を窮屈にしている気がするのはなにもぼくだけではあるまい。人がひとりで生きているのは当たり前のことである。見てわからないのか。

「じゃあおまえは何人で生きてるつもりになっているんだ」などと言い返そうものなら「屁理屈を言うな」などという理不尽の定石をロールプレイされてしまう恐れが出てくるため避けるが、たとえば死にたい人の代わりに生きることのできるような人間などはいるわけがないのだし、仮に「ひとりで生きていない」彼がすべての人から無視されたとして、彼は自分が消えてなくなるとでも思っているのだろうか? それでこの手の悪霊が成仏してくれるのなら話が早いのだが、そういう風にはできていない。というかむしろその「自分はたったひとりである」という自覚から偶像でない生の自由が発芽するのだ。

 人は人に支えられて云々などという道徳の教科書あたりからくすねてきたような物言いは「人はひとりで生きているのだ」という覆せない前提の後に出てくる無用な後日談である。必要であればその都度ひとりで生きている人間が自分の力に応じて他者の支えを獲得していくのである。<支える - 支えられる>という従属関係が発生するのなら、意識的にせよ無意識的にせよそうならざるをえない。支えられる側は、金を払う、親しくする、空気を読むなどその時々における種々の条件に応じてしかその支えは得られないのだから「支えられて生きている」ということが何かしらの前提にくることはない。支えられているからといって振る舞いを制限されるいわれはないのだ。条件に沿う気がない場合はその支えを放棄するだけである。

 ただし<支える-支えられる>関係から解放された関係性はないわけじゃない。

 それは、年収や容姿や学歴など見つけようとすれば無限に見つかるような余計な自意識に汚されていないのらねこ的少年少女の、純粋に楽しさだけに導かれた麗しき友人関係のような関係性*1である。ゆくゆくは花開くであろうその関係性を包含した種子を含めてもいい。

 彼らにおいては自分が楽しみたいがために相互に相手を利用しあうのである。AはBといると楽しいからBと遊ぶのであり、Bもまた同様である。AはBを気遣って誘うのではなく、Bは断れないから誘いを受けるのではない。AもBも自分のために誘い、自分のために応じるのである。そこには<支える - 支えられる>という従属的関係の欠片すら見つけることができない。*2

 ぼくはそういう環境に遊んでいたいし、その麗しき関係性を見た後であらためて目を戻すと懐中電灯に照らされた不審者のように異物感が鮮明になるすべての従属的な関係性から独立していたい。

*1:スローガン的に記述するなら「だれにも従わず、だれも従わせず、序列を導入しようとしない」関係性ということになる。

*2:こういった関係性はマックス・シュティルナーのいう連合に当たる。

黒いユーモア選集 上巻

 

《知的なユーモアが爆笑に変えてしまうことのできないものは何もない。虚無さえも爆笑に変えてしまう。……笑いは、人間の、放恣にまで至る最も豪奢な浪費の一つとして、虚無とすれすれのところにあり、われわれに担保として虚無を与える》*1

 ブルトン編『黒いユーモア選集』の上巻を読んだ。例によってブルトンお得意の奥歯にねずみが挟まったような気が散った文章で<黒いユーモア>が結局何だったのか判然としないけれども、上に引用した誰の言葉だかわからない文章*2からしてすでに健全な笑いでないことがわかる。爆笑という語はこの場合、訳として不適当な印象を受けるが、健全な、つまり明るい笑いには照らすことのできない暗がりにまでマッチ売りの少女が火にみた夢ほどの笑いを持ち込むことはできるだろうことは容易に想像がつく。<黒いユーモア>ということばについては、ユーモアが知的になればなるほど白痴に似てくるところに生じる笑いのことなのだろうというあてにならない第一印象でひとまず適当に納得しておく。

 意外と有名な作家が並んでいてその半数近くが親しみ深い名前だったため目次を見たときにはなんとなしに高揚した。シュルレアリスム以前の作家ばかりで作家同士の共通項もシュルレアリスムとの関連も一見してなさそうに思えるのだが、読んでみるとシュルレアリスム的な抵抗精神の背骨がうっすら見え隠れしていた。それでもボードレールフーリエニーチェを同じ括りで語りうるというのは新鮮だった。

 しかしそのわりに全体の印象としてはたいしておもしろくなかった。少なくとも目次を見たときに抱いた期待値にははるか及ばなかった。それでもスウィフトやリヒテンベルク、フォルヌレ、アレーあたりを読んでいるときは口角から幸せがにやついて溢れてきたし、いま書きながら聴いているベートーヴェンのピアノ協奏曲*3からもくすぐられるようなユーモアの伴奏がサブリミナル的に聴こえてきている。そんなわけで、虚無が堂々と同じ晩餐の席についているようなぼくのこの薄暗い世界も相変わらず黒いわりには幾分ぶよぶよしてきたようなので、予定通り下巻も読むことにする。

*1:

*2:引用した箇所に続けて「と言った者がある。」と書かれているのみ。誰の言葉かは明記されていない。

*3:聴いてるのはフライシャーの方だけど、動画のアバドの方でいうと9:30あたりでなんだか愉快になった。そのあとも何箇所かあった気がするが全部は覚えていないので割愛。


ベートーヴェン: ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15 ポリーニ / アバド / ベルリン・フィル

 

悪の哲学

 レフ・シェストフの『悪の哲学』*1がのらねこ本*2だったのでメモ。

 この本でロシアの哲学者シェストフは、ドストエフスキーニーチェが辿ってきた人生や著書を元に彼らの思想を論じている。両名には、人生の前半において一定の成功を収めつつ順調なスタートを切り、その後ある時期を境にそれまでの自己の信念を覆す思想(地下生活者の思想)を持つようになるという共通点があった。ドストエフスキーはおそらく晩年に至っても前半生の思想と後半生の思想とのあいだで引き裂かれたままだったが、ニーチェは地下生活者の思想を自らのものとし、以前の自己の思想につながるものを片端から糾弾した。地下生活者の思想というのは、簡単に言うとエゴイズムであり、本書でも度々引用されている、ドストエフスキー地下室の手記*3

「世の中が消えてなくなるか、それとも、私が、お茶を飲まずにいるか? 私は、世界が消えてなくなってもいいと言いたい。ただ、私がお茶を飲んでいられるのなら……」

という価値観のことである。

「私」がいなければ世界などありえないのだということに一度気づいてしまったら、道徳も科学も宗教も思想もただの玩具に過ぎないことが露見してしまう。信じるに値するものがどこにもなかったのを知った後にまだ生が余ってしまっているような悲劇の人間にかかれば、上に引用したような表現でさえ誇張なく用いることができる。そのような人間にとって世界など知ったことではないのだ。彼にとってあらゆるすべてが彼の上に生じたイミテーションでしかない。一点の曇りもなく心からそう思っているのである。そうでないとしたら「私」が退場した後、世界は一体どこにあるというのだろう?

 ドストエフスキーは代表作があまりに長いので敬遠してほとんど読んでなかった*4が、「まんがで読破シリーズ」にあった彼の小説*5をたまたま直前に読んでいたおかげで、キリーロフやラスコーリニコフなどやたらと引き合いに出されるキャラも半分くらいはわかった。語られている人物の心理をひとつひとつ展示するようなシェストフの書き方のおかげで、ドストエフスキー作品のドラマチックさの秘密を少し覗けた気がした。シェストフ自身も悲劇的な語りにかけてはなかなか魅力的だった。

*1:

悪の哲学 - 絶望からの出発 (1967年)

悪の哲学 - 絶望からの出発 (1967年)

 

 

*2:のらねこ本とは、下記で述べたようなのらねこの生きざまに近似する思想に類する本のことです。

mabutast.hatenablog.com

*3:

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

 

 

*4:地下室の手記』『おかしな人間の夢』だけはずいぶん前に読んだ。

*5:

罪と罰 (まんがで読破)

罪と罰 (まんがで読破)

 

 

悪霊 (まんがで読破)

悪霊 (まんがで読破)

 

 

カラマーゾフの兄弟―まんがで読破

カラマーゾフの兄弟―まんがで読破

 

ダダとシュルレアリスム

 ダダに興味を持ってすぐにシュルレアリスムとは違うこと*1はすぐにわかったのだけど、ではどう違うのか?という部分をうまく説明できることばを見つけることができずにいた。

 きのう、半年ぶりくらいに『ムッシュー・アンチピリンの宣言——ダダ宣言集*2』を読んでいたら、訳者解説のなかにブルトン*3についての何気ない記述を発見した。

彼の関心の対象は「無意味」よりはむしろ「無意識」のほうであり、

 まさにこれがダダとシュルレアリスムの違いだと腑に落ちた。ダダイストが「無意味」の黴菌を撒き散らすのに対して、シュルレアリストは「無意識」を目指して狂人とともに船出するというわけだ。いやもちろん、それはそれぞれ著作にもわかりやすく書いてある*4のだから知ってはいたし、それ自体特別おどろく話でもないのだが、なぜかそれを対比して考えるということに気がつかなかった。詩でも絵画でも通常は理性において鑑賞する。理性による解釈で評価が決定する。だが「無意味」も「無意識」も理性の介入を避けている。だからこんなに印象が似かよっていたのだ。おそらくシュルレアリスムが形になるまでは当人たちでさえはっきりと違いを理解していなかっただろう。

 人としてならぼくはやっぱりブルトンよりツァラの方が好きなのだけど、人がする活動において目的が「無意味」であるというのは致命的で、それゆえダダは短命であった。意味がないということに人は耐えられないのだ。

 一方で、シュルレアリスムが目指す「無意識」の領域、そしてそれが生んだ多くの作品群も捨てがたい。ダダとシュルレアリスム、この二つを矛盾なく統合できたらいいのになと思う。*5

*1:名称や規模、拠点や参加者等表面上の違いではなく本質として別物であること。

*2: 

ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集 (光文社古典新訳文庫)

ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集 (光文社古典新訳文庫)

 

*3:シュルレアリスム(超現実主義)を提唱したフランスの詩人アンドレ・ブルトンのこと。ダダ創始者のトリスタン・ツァラをパリで迎えてダダ運動に参加した。チューリッヒから各地に飛び火したダダ運動は、第一次大戦後、ツァラが活動拠点をパリに移してまもなく絶頂を迎えたが、やがてツァラとブルトンの思想のずれが顕在化する。その影響でダダは急速に終息していき、ブルトンシュルレアリスム運動を開始する。

*4:「☞DADAは何も意味しない」(ツァラ「ダダ宣言1918」)、「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それに基づいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の動きを表現することを目指す。理性による一切の統制を取り除き、美学的または道徳的などんな気遣いからも離れた思考の口述筆記。」(ブルトンシュルレアリスム宣言」)

*5:もしすでにあったら教えていただきたい。シュルレアリストが老いて権威化したあとで、それに反発してシチュアシオニスム(状況主義)が発生したのは知っているが、その目的・思想が、創始者ギー・ドゥボールの代表作『スペクタクルの社会』を読んでも理解できなかった。ドゥボールとともに活動したシチュアシオニストであるラウル・ヴァネーゲムの『若者用処世術概論』も読みたいのだが、これは未だ邦訳がないため、どなたか翻訳をお願いします。

なんで生きてるのかわからない人へ

給料の使い道を誰かに教えてもらう?

「人生に目的などない」などと声高に語りたがる物知りの馬鹿どもは自分が生きているということを考えたことがないのだと思う。「人間*1」とかいう現実に存在しない机上の生き物をこねくり回してやっと編み出した「人生には目的などなかった」という当然すぎる結論に愕然としている姿は単純に笑っていいのか頭の健康を心配したほうがいいのか迷ってしまう。人生の目的などという疫病が他から与えられてたまるか。自己を所有していないからそんなべらぼうが飛び出すのだ。きみが働いて得た給料の使い道をぼくが決めてしまっても良いのか? きみたちはそういうことをやっているのだ。自分で自由に扱えるものの使い道を他人に教えてもらう必要がどこにある。だいたい「人生には目的が与えられているはずだ」ということをナチュラルに前提にしてしまう人が無神論者を自称するのもおかしいのだけど、どういう構造か両立できている人類が多いように見える。たいしたバランス感覚である。

解答

 では早速「なんで生きてるのかわからない」という人に答えをあげます。あっさり言いますが、享楽するためです。意識が宿ってしまった以上、それ以外はありえない。迷う必要も考える必要もない。「人それぞれ」とかいう日和見主義の模範解答は「具体的に何をすればいいのか?」という個別化した問いに与えられるべきである。もちろん「どうしておまえの事柄をぼくが答えられると思うのだ」というニュアンスをふんだんに盛り込んであるのは言うまでもありませんね。

 そんなわけで、楽しくなければ生きてたってしょうがないわけです。じゃあつまらないから自殺しようとなる人は、まったく誤解している。楽しいことをやれと言っているのだ。自殺は楽しいか? 自殺が楽しい季節がやってきたらぼくもやらないわけにはいかないが、どうもまだそんな時期は来ていないように見える。

ありがちな状況

 しかし、何をすれば楽しいのかがわからない状況はありがちだ。そして、そんな時に限って頭の中がごちゃごちゃとして雑念が脳髄の四国をお遍路参りしているというのもありがちだ。この場合、まず何もかもを諦める必要がある。世界のすべてに幻滅する必要がある。この先に良いことなどひとつも起こらないということを徹底的に理解する必要がある。そのあとで、思考は一点に向かうはずだ。存在のゼロ地点、すなわち「なぜ生きているのか?」。ここで、先ほどの明快すぎる解答をその思考に与えてやるのだ。「楽しむためだ」と。そこで余計なものをたくさん抱えていたことに気づくだろう。親の期待、過去の出来事、将来の不安、エトセトラ、エトセトラ……。それらがどうでもいいと思えた時、自由になれる。一回じゃ足りないかもしれない。回数を重ねるたび楽になっていくだろう。少なくともぼくは順調に楽になっている。のらねこは日々近づいてくる。大事なのは結論を受け入れることだ。放っておけば思考はいつまでも徘徊を続ける。その間ずっと疲労は蓄積される。思考を中止することだ。いくら考えたって、できないことはできない。なるようにしかならない。

ルールについて

 現代社会に蔓延しているルールの中でもわりと強力なものに法律というものがある。法律が絶対などと考える混乱したホモ・サピエンス*2などはまさかあるまいと思うが、ルールを変えることまで反則だとする刷り込みは珍しくないようで、権威を親だと思ってついていっちゃうひよこが後を絶たない。が、まったくそんなことはない。法律など邪魔になったら変えてしまえばいいのだ。簡単に言うなよと思われるかもしれないが、それが簡単でないなら簡単なことをやればいいのだ。何も手段は一つではない。目的は生の享楽なのである。それが出来るなら何だって良い。それこそ社内政治に躍起になってるような気の毒な人でも本人が楽しいならそれでいいわけだ。好きなことをやればいい。悪いことなどはない。

 すべてはのらねこの遊戯なのだ。

おわりに

 性格の悪いやつの文章はこんな感じです。手始めにまずこの文章とぼくへの幻滅をどうぞ。

*1:もちろん実在する個人ではなく、概念としての人間のこと

*2:

Homo sapiens は「知恵のある人」という意味である。

ヒト - Wikipedia

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

 

 一冊だけ挙げるとなるとこれをおいて他には考えられない。というのも、影響を受けた本はことごとくこの本で引用ないしは言及されていたもの、あるいはそれから派生したものばかりだからだ。

 加藤郁乎も辻潤もこの本で知り、現在もその両名には興味が尽きないし、郁乎からは俳句や詩、辻からはシュティルナーやダダへの関心を育んでもらった。いま最も関心があるのはダダの創始者であるトリスタン・ツァラであるが、これからダダ・シュルレアリスムの芸術全般(文学・絵画はもちろんダダとして紹介されることの少ない音楽も)に手を伸ばそうと思っている。

 この本との出会いがなかった場合のことはもう想像もつかない。それくらいぼくの中で大きな位置を占めている。