THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY、通称リミスリ

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映画をみた。『THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY』。リミットオブスリーピングビューティー、通称「リミスリ」。
錯乱した女の現実と妄想と思い出のミックスジュース的な作品です。とっても最高でした。
どれが現実で妄想で思い出かっていうのは普通にみてれば初見でも大体分かるようになっています。前衛的すぎて解釈不能みたいな作品ではないです。

生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ

主人公オリヤアキは女優になりたい。恋人は突然いなくなるし、夢は叶わないしで気づいたら29歳。「これからどうしたらいいのよ」ってなったアキが、過去と現在、現実と妄想の間を行ったり来たりして、いまの現実に向き合っていく。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」ってセリフは序盤と終盤で出てくる。序盤では問題提起として、終盤ではアキの決意表明として。これがこの作品の一番重要なテーマでした。

これが問題になるのは「もうなにもかも終わってしまった」ような感覚に陥った時だと思う。今さら何をしても意味がないというような虚無感と共にある疑問だと思う。

アキは頭がぐちゃぐちゃになりながらこの問題に取り組んだ。生きるべきか死ぬべきか。答えを出すには過去を振り返るしか方法がない。そこに妄想が挿し挟まったのは、無意識の防衛機制が働いた結果で、アキが直視できなかった過去から逃れるためなのだと思う。

屋上

屋上のシーンが好きだ。真ん中にでーんとベッドが置いてあって、周りに家具が並んでいる。ベッドの背景に椅子だとか地球儀だとか女性の像だとかが雑然と置かれていて、そのさらに向こうには他の建物が立ち並んでいる。このよくわからない空間がデペイズマンみたいな効果を出していてよかった。

アキがブッチと話してる時、ひとりでいる時、つまり恋人のカイトがいなくなった後の屋上には、まさに「もうなにもかも終わってしまった」ような投げやり感がどことなく漂っていて居心地がいい。ダメになることは、それはそれで気持ちのいいことだ。自由の同義語といってもいいかもしれない。自由になるということは価値を持たないということだ。何かに価値を感じていたらそれからは自由になれない。たとえば社会を無価値にしたら社会から自由になれる。夢や人だって同様だ。アキは女優になることからもカイトからも自由になるために「もう忘れてもいいかな、でも忘れたら生きていても仕方ないなあ」なんて思いがあったんだと思う。

ブッチ「時間って、実は流れていないんだよ。過去・現在・未来がすべて同じ空間の中で同時進行してる」
アキ「じゃあ一番幸せな時間に飛ばしてよ」

みたいな会話があったんだけど、アキが一番見たかったのはカイトが居た最後の夜のことだったんだろうなあ。これも屋上だった。上述したよくわからない空間が特別な夜の演出効果を上げていたように思う。うつくしい時間だった。話が先に進まなければいいのにとすこしだけ思ってしまった。 

TRAILERを見て! 

屋上だけじゃなくて、アキが働いてるサーカス小屋だったり、あやしい錠剤入りのジントニックが出てくるクラブだったり、映像的にかなり好みだった。カイトがどこか現実から遊離したような雰囲気を出しつつ包容力も感じられる完全なイケメンな上、いなくなり方がタイミング含めてのらねこ的だったのもよかった。そもそも家出した女がバーでイケメンに拾われるなどという少女漫画式キリストの降臨みたいなシチュエーションからして最高。あるいはアキの錯乱加減もよい。「時間は流れてない」だの「世界はお前のもんだ」だのというブッチのセリフもよい。

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このTRAILERをみた瞬間にこれは劇場に行かなきゃと思った自分の直感は間違っていなかった。予告ってわりと本編よりも面白く感じたりすることが多いと思うんだけど、この作品はそういう落差がありませんでした。このTRAILERをみて興味が出た人はきっと満足できると思います。

公式サイトで別バージョンのTRAILERもみれます。

ぼくはどこにいる?

これの続き。
街にいる人がその頭の中にいるとは思えなくなってしまった。
ではぼくは?
ぼくはどこにいるのか?

この身体がぼくなのか?
ぼくの身体はぼくではない。
ぼくの脚はぼくのものであり、ぼくの手はぼくのものである。
要するにぼくが保持しているものであってぼくそのものではない。

ではぼくはこの身体の中にいていろいろなものを感じているのか?
しかしこの感覚もぼくではない。
それはぼくが感じたことであってぼく自身ではない。

ではぼくはその感覚刺激を受けているとされる脳か?
それもぼくではない。脳は意識ではない。 
脳をぼくだとしてしまうとそれこそ哲学的ゾンビ*1になってしまう。

身体も感覚も脳もぼくが所有しているものだ。
ではそれらを所有しているぼくはどこにいる?

ここはどこなんだ?

時間を忘れたい

時間はずっとぼくから離れずについてきている。ぼくが進んだ分だけ時間も進む。時間がぼくを置いていくことはない。時間の一単位をどれだけ細かく区切ってもぼくが存在しない瞬間はない。ぼくが存在しないとき、時間も存在しない。時間とぼくは常に一対一だ。

しかしそれは錯覚ではないだろうか。時間とぼくを区別する必要はないのだ。そもそも時間などというものもなかった。時計が指し示す時刻は、座標空間上の一点を指し示す数値であるにすぎない。

「時間」という語も他の言葉と同様、あるがままの自然から「時間」と「時間でないもの」を区別するために人間がつくったものなのだから、区別する必要がなくなったらもう不要だ。普段わざわざ住所に日本国などと書かないのと同じように。

大体こんなに離れがたくくっついているものがぼくでないことがあるか?
仮にぼくが時間を欠損したとして、そのときぼくがどうやって存在しているのか想像もつかない。

これから待ち受けている時間も追い立てられる時間もどこにもない。死ぬまでの時間の長さに重圧を感じるぼくや残された時間の少なさに追い詰められるぼくがいるだけだ。「時間は嘘である」と無意識のレベルで承認できればそれだけで解放されうる苦しみなのだ。 

 
これらの悲鳴は時間を忘れたい一心で書いています。

およそどんなことだって死ぬまで信じ込むことができればなんでもよいのだと思います。狂気を根拠に何かを信じることができればそれが一番素敵なことです。

カイエ

ا

 自分とそれ以外(以下、世界と表記する)は関心の糸だけで結ばれている。すべてに無関心になると生きている実感はもはや沸かない。ひたすら無為な時間を過ごす以外に為すすべはなく、底なしの虚無感のほか何ものも見いだすことができない。

 関心の強度で生の充実度は測れる。関心が強くなればなるほどそれに向かう行動が起こしやすくなる。常に関心の度合いに応じて行動は選択されているように思う。そしてその結果の感じ方にも影響があると思う。関心が強ければもっと好ましい結果を得るための方法を探るだろうし、関心が弱ければ辞めてしまうかもしれない。関心は主観性の強弱に相関があるように感じる。関心が強ければ強いほどその対象に没入する度合いも強くなりそれ以外のものは彼の意識から遠ざかっていくことだろう。逆に関心が弱ければその度合いに応じて他のものを見ようとするはずだ。関心が弱いときに目に飛び込んでくる客観性のノイズはさらに関心を弱める方向に作用する。というのも主観でないものはすべて客観性の色に染められてしまっているからだ。

 客観性とはなにか。ことばでの理解だ。これはあんな感じらしいよ、という話を鵜呑みにすることだ。「あんな感じ」と自分では思ったことがないにもかかわらずそれを信じ込んで固定化してしまうことで客観性の毒は回り始める。「あんな感じ」と感じられないことがまるで不正解かのように思われ始める。

 客観性をできる限り排除することで主観性は守られ関心は強固になる。世界と自我との結びつきも強固になる。客観性が著しく弱まり主観性が甚だしくなってくると、それは主人公性といったほうがしっくりくる。それほど世界との一体感が生まれる。

 

շ

 比較とは特殊性の極致である自己を貶める行為だ。

 

 世界とは自分が見る景色であり五感やそれ以外で感じる刺激から浮かび上がる印象のことである。それゆえ世界はひとりにひとつずつ配達された差出人不明の手紙なのである。

 

Գ

 どこか遠い星で醜悪な化け物の種族があたしは美しいだの醜いだのと勝ちほこったりしょげかえったりしている姿を想像する。その姿はやたら滑稽に思えるのだが、しかしそれは、ことによったらこの地球のことなのではないか? いやたしかにそうなのである。われわれはたまたまここに生まれ育ったという無意識の特殊性のせいでその感性が麻痺してしまっていたのである。


ܟ

 そうするしかできない人間に、あれが正しいだのそれは間違いだの言うことにどれほどの意味があるだろうか。

 

 誤りとは客観性からにじみでるありもしない正解までの距離感覚なのだから主観性を最高度に高めることで無謬性も高まっていき、それが自身の主人公性へとつながるのだ。

 

դ

 死んでもいいから遊び続けろと全身で表現しているのらねこはそうある限り自分自身の主人なのである。

日記の書き方がわからない

 死体を読むと僅かばかりの物語が溢れる。もうどうなってもいいのかもなという気分を離さないようにしてベッドに寝転ぶ。世界には結局何が生きているのだろう。孤独な部屋にうさぎコウモリが慎ましやかに飛んでいる。あいつとぼくを結ぶと部屋の対角線ができる。許容範囲の中でできる限り離れた他者に声をかける。返事を期待しないでいるとそのままの結果が現れる。なんでもそうだ。当たり前の出来事ばかりが続く。見える世界に興味が湧かないのも無理はない。現実を朦朧とさせてぼく自身のなにかを間違える時にだけすこし生きている感じがする。因果が多少もつれてもどうせ生きている間は生きているのだ。地球が宇宙に沈没するにつれて夜が深くなる。退屈でないことはひとつもない。書き残したいこともひとつもない。ただぼくがぼくじゃなくなるように木星で猫を飼うことなどを考えている。

ピアスを開けた話

 意味もドラマもないけれどまたピアスを開けた。十代のとき以来だ。当時は耳、唇、舌ぜんぶで6つほど開いていて、就職したタイミングで舌以外のぜんぶを外した。残ったセンタータンはずっと開いたままだった。ピアスをまた開けようという気持ちはそれ以来ずっとなかったのだけど、6月頭に精神的な論理破綻が到来して、そのときにまた開けようかなという気持ちが芽生えた。自分でも意外だった。

 Googleで検索するとあっけなくよさげな画像が見つかった。センタータンが開いていてタンエッジにキャプティブビーズリングが右側に2つ並んでいる画像だった。一目でこれだと思った。センターはもう開いているから、タンエッジ二箇所を開けるだけだ。


 去年までひものような生活をしていて、でもそれでは全然自由を感じることはできなかった。金の観念を強めた結果に終わったように思う。
 そしてまた雇用されることにした。しかしそれは諦めて生きるということではさらさらなく、生きているだけで課される負債を雇用労働に依存することなく自分でなんとかするための、その足がかりとしての資金集めを目的としたものだった。だから十分に資金が溜まったら雇用されることを自分自身に禁止しようと考えていた。

 ぼくは雇用されつつもあくまで自分のルールを実践しようと思っていた。自分の生を雇用主に貸し出しているわけではないのだから当然のことだ。些細なことだけれど、取引先との関係性をビジネスとかいう不愉快なゲームからわざと外れて個人対個人の自然なやりとりに変容させてみたり、既存の無駄なルールを無視して必要だと思えることだけをやってみたりということを実践していた。

 そうするとなぜか社内評価が上がってしまったが、評価が上がるとやらされることが増えるというだけの話で、そんなものは当然ながら求めていない。なので仕事を断ることも増えた。突然休んだりもした。不要な評価は下げていかなければならない。なにを得るためにそこにいるのか? 金だ。評価は金でしか受け付けないよという話だ。

 そんなことをやっているうちに時間はどんどん過ぎていき、しかし資金は一向に貯まらない。ここで「貯めるために頑張る」という死に至る考え方があるのだが、落ち着いて考えてみる。資金が貯まらないのは手段が間違っているからであって、努力などはまるで関係がない。努力が必要とされる時点で手段が間違っていると考えるべきだ。ぼくが観測した限りでは「現状と結果との間に有効な手段を見つけられない時に無理やり望む結果に近づける馬鹿なやり方」のことを世間では「努力」と言っているように見受けられた。持続可能性がどうとかいうレベルですらなく、努力が必要とされた時点でその活動は100パーセント無駄だと思う。有効な手段を見つけるか諦めるかどちらかにするべきじゃないか。個人的には有効な手段が見つからない場合その目的設定が間違っているので諦めるのがいいんじゃないかと思う。諦めるといっても「いまやることじゃない」という程度の話で、またやる気になったときにやればいいのだ(その後やる気にならなかったらやる機会は失われてしまうがやる気もないのにやらなくてはいけないと思い込んでしまうとたいへんな無理が生じるので諦めて正解ということになる)。

 そんなわけで「貯めるために頑張る」という選択肢はありえないので、ひとまず辞めてみることにした。決めてしまうと気が楽になったので晴れ晴れとした気持ちでタンエッジにピアスを2個開けた。傷が治って安定するまで3ヶ月かかるからそれまでバーベルにしておきなさいと言われたのでそれに従う。この状態だとあまり見た目が良くないので早く変えれるようにならないかなと思っている。

暴露、あるいは欲望の囚人による毒矢

 以下はそにっくなーす氏の『暴露』という日記文学に触れて瞬間的に自動筆記した文章である。昨年11月の文学フリマにて購入し読み終わる前に突発的に出来上がったものであったため読み終えた後に何かしら客観的なわかりやすさを施す予定だったのだが、氏の輝かしい無垢性に敬意を表してあえてそのまま公開することにした。

 彼女がいみじくも元彼から引き出した「欲望の囚人」という評価にふさわしい生理的受難、白衣の内的原罪がそにっくなーす氏の手によって惜しげなく公開されたこと、これはひとつの事件だった。少なくともぼくの中ではなにかしら解決を要する体験として記憶されることになるピュアネスの毒矢であった。

 欲望は抑制されてはじめて欲望となる。欲望が欲望になる瞬間とは、自分が欲望から離れたときだ。それは実際には欲望そのものであった自分自身から遠ざかってしまったときなのだ。他者の目を借りて目撃した自分自身の姿は、それまでと同じようには見れなくなっている。そして欲望に手錠をかけるのだ。自覚された瞬間から欲望は異物として世界に存在してしまう。欲望が自己である限り、遠ざかっていく自意識は疎外感に悩まされるだろう。生の中心点はあくまでも欲望なのだ。

 彼女の特異性はここにおいて理解される。一見、彼女もそのように自己から遠ざかっているように見える。しかし彼女は欲望を俯瞰しない。欲望を異物として手放すことがない。

もっともっとしっかりものになりたいけれど、このゆらぎ具合 わけわかんなさと 不安定さが すこしでも キミの目を惹くのならば わたし このままでも いいかなーって 思っているよ

 この軽やかな詩的情緒にそれは現れている。おそらく何の気なしに書かれたであろうこの文章に、ぼくは生の脈動を感じ取った。自分自身から遠ざかるように見えた彼女の向かう先は欲望(つまり無垢なる生)の中心であった。そこから発射されることばは日常の喜怒哀楽を鮮やかに瀉血していて思わず目を背けてしまいそうになるほどだ。

 おそらく合理性という悪夢に向けて拳銃を祈るしかない日常に鮮やかな生を虐待され続けている2120年頃の好事家はこの白衣の黒ナースが100年前の日々をまさに音速で駆け抜ける様をまざまざと夢想することを禁じ得ないであろう。そしてそれは生そのものを禁じられた遊びとして義務の鳥かごに自ら閉じこもる人々の人間自身、つまり好奇心と生に衝撃的なレゾンデートルを発熱させ、歓喜の咆哮を促すことだろう。

 

 語られた固有名詞がいちいち魅力的に見えてしまうような語り手がいる。なぜ魅力的なのかといえば、欲望のばねで飛ばした感情の矢が不純物の追いつけないスピードでこちらに突き刺さるからだ。

 その矢をそにっくなーす氏もたしかに放っていたのだった。