日記1:かなしい僕はウソつきの詩人になる

13時前に起床してカーテンを開けるとありがたい太陽の恵みが馬鹿みたいに照っていて、思わず座り込みねこに擬態して日向ぼこりをしてしまった。日向ぼこりは春でも夏でもなく冬の季語であるが、たしかに冬の季語だったと今日はじめて実感した。

珍しい人から電話がかかってきた。出張でこっちに来るというので連絡をくれたようだ。ぼくは自分から連絡することが苦手だからこういう連絡は嬉しくなる。曲を作っている人だったけど、いまも作っているようで安心する。詩を書いているというと歌詞を書いてくれと頼まれた。いいものを書こうと思う。

今日は何か文章を書こうと思っていたけれど脳の隙間をねずみがうろちょろしていて、何もまとまらない。諦めて本に手を伸ばしてみるがうっかりすると文字がみみずになって理解可能性の外側へ這い出してしまう。

Twitterを眺めていると19年前の今日、Pierrotの「MAD SKY -鋼鉄の救世主-」が発売されたという情報が流れてきた。そのTweetに貼ってあったPVを再生して、これまでの19年間を嘘にした。鋼鉄の救世主が「必要のない景色だけを消滅させ」て、ぼくは中学生になった。2分20秒後、ぼくはどうしようもない形だけの大人に戻った。

どこに出すわけでもない短歌ができた。たいした出来でもないがイマージュとしては面白いのでここに載せて供養する。
<見ざる言わざる着飾る首のないマネキンたちの地下遊戯会>

頭が痛い。

「享楽の意義」と「自殺の伝染病」と

たしかアルツィバーシェフだと思った、人間が他人の自殺するのを止めることは僭越だという意味のことをいった。つまり彼の考えではこの世に生きている人間は、少なくとも何等かの意味でこの世を享楽し得ることの出来る人々である、だからそれができない人間が自殺するのはあたり前で、それを他人が止めだてする必要はないというのである。ちょっと聞くと冷酷だが、僕なぞには如何にも真理の如くきこえる言葉である。

上記辻潤の「享楽の意義*1」からの引用だが、辻が言ってるのはおそらくアルツィバーシェフの「自殺の伝染病*2」で間違いないと思う。

アルツィバーシェフは「自殺の伝染病」で、若い女に「何のために生きなければならないのか、どうして死んではいけないのか」と言われて

人生の事実そのものの中に喜びを見出している者のみが生きるべきである、そこに何物をも見ないものは、彼等は実際寧ろ死ぬべきである

と回答したと書いている。

アルツィバーシェフも回答するにあたっていくらか逡巡したようで、他の回答ができなかった理由も書いている。要約すると次のようになる。

<私は人生の美しさを語る言葉を持っているが、彼女にはそれ以外のものが必要だった。私は文学や芸術など自分の生を充実させる術を持っているが、彼女にはそれが与えられなかった。私に残された唯一のアドバイスは、民衆の幸福のために教師になって子供達に教育を与えることだが、それは私自身従事することを欲しないが故に、それを勧めるのは偽善でしかない。そして偽善は破滅と悩みを与えるだけだ。>

確かに彼の回答は冷酷に聞こえる。それに自分がアルツィバーシェフの立場だったらかなり言いづらい回答でもある。それでも本当のところどう考えているのかといったら、ぼくはアルツィバーシェフの言っていることをたどたどしく回答することになるだろう。アルツィバーシェフのいうことはもっともだし、そりゃそうだよなあとしか思えない。

でも悲しくないか?と思う。

気がついたら親とかいう得体の知れない生き物に生活を管理されていて、学校に行け勉強をしろなどと言われ、おとなしく勉強していれば何か報われるかと思ったら、労働のための下準備でしかない。あれ、ぼくは働きたかったのか?まさか。それでも働くのが当たり前みたいな顔した両親教師その他大勢に囲まれていつの間にか「働かない」という選択肢なんかないみたいな状況になっている。「小学校の時に書かせられた将来の夢ってのはありゃ一体なんだったんだ?」などと思いつつも仕方なく就職して金を稼ぐようになりました。それで? 次は結婚して子供を作れ? もっと稼いで家を買え? それで? それでなにかあるかといったらなにもない。わけのわからない世界に引っ張り込まれて、楽しいことの一つも見つけられませんでしただからもう死ぬしかないよね、じゃあまりに悲しすぎるだろ。無理矢理にでも楽しまないと割に合わないだろ。

それでもひとつ救いなのが「もう死ぬしかないよね」ってなった時点で、それまでの価値観とか常識が完全に間違っていたのが判明することだ。まっさらの状態から吹き込まれるわけだから仕方ないのだけど、教わったことをただ鵜呑みにして正当性を検証してこなかった。教わったのは極端にいうと周りの大人の偏見だ。大人同士だったらまだ意見の違いを尊重するという視点もあるが(あやしいものだが)、子供相手だとその視点がすっぽり抜けてまるで自分の意見が唯一の正解だとでもいうような顔で子供に覚えこませてしまう。大人だとか世間だとかいうのがそもそもデタラメだった。周りの大人も世間も正解なんかは持っていないのだ。だったらそれまで持っていた旧来の価値観はぶち壊してもいいんじゃないか?自分の価値観で生きられるんじゃないか?少なくともその意志を持つことはできるはずだ。そうしなきゃもう死ぬしかないってとこまで来てるんだからもうやるしかないよね。

めちゃくちゃやって好き勝手に生きてるような人間がぼくには美しく見えるよ。

*1: 

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

 

 

*2:アルツィバーシェフ「作者の感想」所収。Amazonにもなかったので気になったら図書館か古書店でお求めください

THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY、通称リミスリ

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映画をみた。『THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY』。リミットオブスリーピングビューティー、通称「リミスリ」。
錯乱した女の現実と妄想と思い出のミックスジュース的な作品です。とっても最高でした。
どれが現実で妄想で思い出かっていうのは普通にみてれば初見でも大体分かるようになっています。前衛的すぎて解釈不能みたいな作品ではないです。

生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ

主人公オリヤアキは女優になりたい。恋人は突然いなくなるし、夢は叶わないしで気づいたら29歳。「これからどうしたらいいのよ」ってなったアキが、過去と現在、現実と妄想の間を行ったり来たりして、いまの現実に向き合っていく。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」ってセリフは序盤と終盤で出てくる。序盤では問題提起として、終盤ではアキの決意表明として。これがこの作品の一番重要なテーマでした。

これが問題になるのは「もうなにもかも終わってしまった」ような感覚に陥った時だと思う。今さら何をしても意味がないというような虚無感と共にある疑問だと思う。

アキは頭がぐちゃぐちゃになりながらこの問題に取り組んだ。生きるべきか死ぬべきか。答えを出すには過去を振り返るしか方法がない。そこに妄想が挿し挟まったのは、無意識の防衛機制が働いた結果で、アキが直視できなかった過去から逃れるためなのだと思う。

屋上

屋上のシーンが好きだ。真ん中にでーんとベッドが置いてあって、周りに家具が並んでいる。ベッドの背景に椅子だとか地球儀だとか女性の像だとかが雑然と置かれていて、そのさらに向こうには他の建物が立ち並んでいる。このよくわからない空間がデペイズマンみたいな効果を出していてよかった。

アキがブッチと話してる時、ひとりでいる時、つまり恋人のカイトがいなくなった後の屋上には、まさに「もうなにもかも終わってしまった」ような投げやり感がどことなく漂っていて居心地がいい。ダメになることは、それはそれで気持ちのいいことだ。自由の同義語といってもいいかもしれない。自由になるということは価値を持たないということだ。何かに価値を感じていたらそれからは自由になれない。たとえば社会を無価値にしたら社会から自由になれる。夢や人だって同様だ。アキは女優になることからもカイトからも自由になるために「もう忘れてもいいかな、でも忘れたら生きていても仕方ないなあ」なんて思いがあったんだと思う。

ブッチ「時間って、実は流れていないんだよ。過去・現在・未来がすべて同じ空間の中で同時進行してる」
アキ「じゃあ一番幸せな時間に飛ばしてよ」

みたいな会話があったんだけど、アキが一番見たかったのはカイトが居た最後の夜のことだったんだろうなあ。これも屋上だった。上述したよくわからない空間が特別な夜の演出効果を上げていたように思う。うつくしい時間だった。話が先に進まなければいいのにとすこしだけ思ってしまった。 

TRAILERを見て! 

屋上だけじゃなくて、アキが働いてるサーカス小屋だったり、あやしい錠剤入りのジントニックが出てくるクラブだったり、映像的にかなり好みだった。カイトがどこか現実から遊離したような雰囲気を出しつつ包容力も感じられる完全なイケメンな上、いなくなり方がタイミング含めてのらねこ的だったのもよかった。そもそも家出した女がバーでイケメンに拾われるなどという少女漫画式キリストの降臨みたいなシチュエーションからして最高。あるいはアキの錯乱加減もよい。「時間は流れてない」だの「世界はお前のもんだ」だのというブッチのセリフもよい。

www.youtube.com

このTRAILERをみた瞬間にこれは劇場に行かなきゃと思った自分の直感は間違っていなかった。予告ってわりと本編よりも面白く感じたりすることが多いと思うんだけど、この作品はそういう落差がありませんでした。このTRAILERをみて興味が出た人はきっと満足できると思います。

公式サイトで別バージョンのTRAILERもみれます。

ぼくはどこにいる?

これの続き。
街にいる人がその頭の中にいるとは思えなくなってしまった。
ではぼくは?
ぼくはどこにいるのか?

この身体がぼくなのか?
ぼくの身体はぼくではない。
ぼくの脚はぼくのものであり、ぼくの手はぼくのものである。
要するにぼくが保持しているものであってぼくそのものではない。

ではぼくはこの身体の中にいていろいろなものを感じているのか?
しかしこの感覚もぼくではない。
それはぼくが感じたことであってぼく自身ではない。

ではぼくはその感覚刺激を受けているとされる脳か?
それもぼくではない。脳は意識ではない。 
脳をぼくだとしてしまうとそれこそ哲学的ゾンビ*1になってしまう。

身体も感覚も脳もぼくが所有しているものだ。
ではそれらを所有しているぼくはどこにいる?

ここはどこなんだ?

時間を忘れたい

時間はずっとぼくから離れずについてきている。ぼくが進んだ分だけ時間も進む。時間がぼくを置いていくことはない。時間の一単位をどれだけ細かく区切ってもぼくが存在しない瞬間はない。ぼくが存在しないとき、時間も存在しない。時間とぼくは常に一対一だ。

しかしそれは錯覚ではないだろうか。時間とぼくを区別する必要はないのだ。そもそも時間などというものもなかった。時計が指し示す時刻は、座標空間上の一点を指し示す数値であるにすぎない。

「時間」という語も他の言葉と同様、あるがままの自然から「時間」と「時間でないもの」を区別するために人間がつくったものなのだから、区別する必要がなくなったらもう不要だ。普段わざわざ住所に日本国などと書かないのと同じように。

大体こんなに離れがたくくっついているものがぼくでないことがあるか?
仮にぼくが時間を欠損したとして、そのときぼくがどうやって存在しているのか想像もつかない。

これから待ち受けている時間も追い立てられる時間もどこにもない。死ぬまでの時間の長さに重圧を感じるぼくや残された時間の少なさに追い詰められるぼくがいるだけだ。「時間は嘘である」と無意識のレベルで承認できればそれだけで解放されうる苦しみなのだ。 

 
これらの悲鳴は時間を忘れたい一心で書いています。

およそどんなことだって死ぬまで信じ込むことができればなんでもよいのだと思います。狂気を根拠に何かを信じることができればそれが一番素敵なことです。

カイエ

ا

 自分とそれ以外(以下、世界と表記する)は関心の糸だけで結ばれている。すべてに無関心になると生きている実感はもはや沸かない。ひたすら無為な時間を過ごす以外に為すすべはなく、底なしの虚無感のほか何ものも見いだすことができない。

 関心の強度で生の充実度は測れる。関心が強くなればなるほどそれに向かう行動が起こしやすくなる。常に関心の度合いに応じて行動は選択されているように思う。そしてその結果の感じ方にも影響があると思う。関心が強ければもっと好ましい結果を得るための方法を探るだろうし、関心が弱ければ辞めてしまうかもしれない。関心は主観性の強弱に相関があるように感じる。関心が強ければ強いほどその対象に没入する度合いも強くなりそれ以外のものは彼の意識から遠ざかっていくことだろう。逆に関心が弱ければその度合いに応じて他のものを見ようとするはずだ。関心が弱いときに目に飛び込んでくる客観性のノイズはさらに関心を弱める方向に作用する。というのも主観でないものはすべて客観性の色に染められてしまっているからだ。

 客観性とはなにか。ことばでの理解だ。これはあんな感じらしいよ、という話を鵜呑みにすることだ。「あんな感じ」と自分では思ったことがないにもかかわらずそれを信じ込んで固定化してしまうことで客観性の毒は回り始める。「あんな感じ」と感じられないことがまるで不正解かのように思われ始める。

 客観性をできる限り排除することで主観性は守られ関心は強固になる。世界と自我との結びつきも強固になる。客観性が著しく弱まり主観性が甚だしくなってくると、それは主人公性といったほうがしっくりくる。それほど世界との一体感が生まれる。

 

շ

 比較とは特殊性の極致である自己を貶める行為だ。

 

 世界とは自分が見る景色であり五感やそれ以外で感じる刺激から浮かび上がる印象のことである。それゆえ世界はひとりにひとつずつ配達された差出人不明の手紙なのである。

 

Գ

 どこか遠い星で醜悪な化け物の種族があたしは美しいだの醜いだのと勝ちほこったりしょげかえったりしている姿を想像する。その姿はやたら滑稽に思えるのだが、しかしそれは、ことによったらこの地球のことなのではないか? いやたしかにそうなのである。われわれはたまたまここに生まれ育ったという無意識の特殊性のせいでその感性が麻痺してしまっていたのである。


ܟ

 そうするしかできない人間に、あれが正しいだのそれは間違いだの言うことにどれほどの意味があるだろうか。

 

 誤りとは客観性からにじみでるありもしない正解までの距離感覚なのだから主観性を最高度に高めることで無謬性も高まっていき、それが自身の主人公性へとつながるのだ。

 

դ

 死んでもいいから遊び続けろと全身で表現しているのらねこはそうある限り自分自身の主人なのである。

日記の書き方がわからない

 死体を読むと僅かばかりの物語が溢れる。もうどうなってもいいのかもなという気分を離さないようにしてベッドに寝転ぶ。世界には結局何が生きているのだろう。孤独な部屋にうさぎコウモリが慎ましやかに飛んでいる。あいつとぼくを結ぶと部屋の対角線ができる。許容範囲の中でできる限り離れた他者に声をかける。返事を期待しないでいるとそのままの結果が現れる。なんでもそうだ。当たり前の出来事ばかりが続く。見える世界に興味が湧かないのも無理はない。現実を朦朧とさせてぼく自身のなにかを間違える時にだけすこし生きている感じがする。因果が多少もつれてもどうせ生きている間は生きているのだ。地球が宇宙に沈没するにつれて夜が深くなる。退屈でないことはひとつもない。書き残したいこともひとつもない。ただぼくがぼくじゃなくなるように木星で猫を飼うことなどを考えている。