日記3:窓

ここ三日ほど眠り続けている。

もちろん間欠的に起きて活動してはいたが、この三日においては睡眠時間が半日以上に及び、今日においては19時間ほど向こうへ行っていた。察しのいい人には分かりきった話だと思うが、向こうというのは要するに純粋に個人的な夢の世界のことであり、半日以上眠るということは、夢の世界の時間的な票を過半数勝ち取り、他者的な現実世界との支配構造を逆転させるということを意味する。

ボードレール「窓」という散文詩に「開かれた窓を外から眺め込む人は、しまった窓を見つめている人ほどに、多くの物を見ているわけでは決してない。」と書いて部屋の中で耽る薄暗い空想に深遠な魅力を与えているが、ここ現代の東京においてこれをぼく以上に痛烈に感じている人間はいないだろう。

というのも、現実世界を留守にしていた間に感じられた充実感を現実世界において感じたことがないからである。数年前の年末年始にはだいぶ充実した時間を過ごせたのだが、このときも二日おきに起きて食事をしてまた眠るという無垢な怠惰さに従って睡眠に一途な生活を送っていた。空想と夢という違いはあるが、純粋に個人的な時間という意味においてはボードレールが書いていることと同じようなものだろう。

恐らく諸君はこう尋ねるだろう、『一体その伝説*1というのは確かなんだろうか、』と。もしそれが私にとって生きることの助けになり、私が現に存在することを、また如何なる者であるかということを、感じ取る助けになったとすれば、私の外側に存在する現実など、そもそも何ほどのことがあろう。*2

夢の世界のリアリティを、自分自身に対してこの引用のレベルまで高めることができれば、睡眠の最中になんらかのエラーが発生して現実世界が崩壊し、その世界に横たわっている過敏な肉体が滅びてしまったとしても、夢の世界ではあえかな胡蝶として無頓着に苦痛なく舞い続けていられるのだ。

一言加えておくと、この三日の間に見た夢は一部始終きれいさっぱり余すところなく忘れてしまった。完全な忘却というのもまたひとつの社会性溢れる眠り方である。まったく眠らない人間がいない以上、ぼくにも社会性がないこともないといえる。奴らが眠らないから強いて眠ろうとするのではない。奴らが眠ってもぼくは眠るし、奴らが働きたくてもぼくは働きたくないのだ。やっぱり社会性ないかも。

*1:空想で作り出した伝説のこと。

*2:福永武彦訳『パリの憂愁』「窓」より。(上記「開かれた窓〜」も同様。)

パリの憂愁 (岩波文庫)

パリの憂愁 (岩波文庫)

 

 

日記2:誰自身

昨夜は唐突に現れた悪魔的頭痛に参ってしまってここ15年来唱え続けてきた「眠っていれば痛くない」という根暗高速子守唄*1式のお祓いを改めて使わせて頂いた。そんな呪文に何らかの効果があるはずもなくしばらく丸くなって唸っていたが、それまで耐え続けてきた霊的な自我がついにやられて軽度の昏睡あるいはただの健康的な睡眠に陥った。

目が覚めて頭痛は軽く消え去っていたが何となくベッドを降りる機会を逃したので仕方なくTwitterのTLを遡って無表情で笑ったり自分の人生を考えることもなくいいねをつけたりしていた。

生きてても何もすることがないので、結局は本を読むことになる。加藤郁乎の「誰自身*2」を読み始めた。「お前は救世主だ——という声を私が最初に聞いたのは、去年の夏の終りの、ある爽やかな朝のことだった。」から始まるこのエッセイは意識と無意識の交流が鮮やかに放り投げられていて非常に好きな作品ではあるが、同時にぼくには書けないということを明示されていて読み直すたびに寂しい思いもする。

当時の彼は交友関係の広い酒飲みだった。言ってしまえばこれがぼくに彼のような文章が書けない理由だ。ぼくには交友関係も酒も欠けているからだ。澁澤龍彦の嫁でありみんなの妹でもある矢川澄子と霊的にだけでなく肉体的に仲良くしてしまったことをわざわざ交友録をまとめたエッセイ集の文庫あとがきに平然と発表してしまった後で当人同士の関係がぎくしゃくして寂しくなってしまったのか人間関係の宝庫であった彼も晩年は隠居して俳句研究に専念するようになったとはいえ、それまでの著作にはしょっちゅう当時の日本文学者の名が登場して、しかもそのエピソードがいちいち面白いので、もしぼくが発狂した女だったら布を噛みしめながら泣いて悔しがったことと思う。

このエッセイだけでも、土方巽と酒を飲んでニジンスキーの話をしていたはずがなぜか「不条理とはニワトリを飼うことです」などという発言が飛び出してみたり、「牡蠣貝的な質感を増しつつあ」る稲垣足穂との一年ぶりの再会の席で、仏教徒である火星族とキリスト教徒である金星族とのあいだに交わされる戦争とその行く末についての話などをしているのだ。こんな交友関係をどうやったらつくることができるのか、羨ましさで側頭葉が痺れるあまり想像すらできない。こういった交友関係を持たないぼくが彼の真似をしようとしたところで、せいぜい「ぼくは救世主ですか?」などと最寄りのカトリック教会にお伺いを立てて精神科の病院に搬送されるのがオチだろう。

あとこれは冗談だけど、いまからぼくが何者かになれるのなら加藤郁乎か発狂した女になりたい。

*1:「根暗高速子守唄」は、蜉蝣の1stアルバム「蜉蝣」に 収録されている。

蜉蝣

蜉蝣

 

 

*2: 「誰自身」は、評論集「かれ発見せり」に収録されている。

かれ発見せり (1972年)

かれ発見せり (1972年)

 

 

日記1:かなしい僕はウソつきの詩人になる

13時前に起床してカーテンを開けるとありがたい太陽の恵みが馬鹿みたいに照っていて、思わず座り込みねこに擬態して日向ぼこりをしてしまった。日向ぼこりは春でも夏でもなく冬の季語であるが、たしかに冬の季語だったと今日はじめて実感した。

珍しい人から電話がかかってきた。出張でこっちに来るというので連絡をくれたようだ。ぼくは自分から連絡することが苦手だからこういう連絡は嬉しくなる。曲を作っている人だったけど、いまも作っているようで安心する。詩を書いているというと歌詞を書いてくれと頼まれた。いいものを書こうと思う。

今日は何か文章を書こうと思っていたけれど脳の隙間をねずみがうろちょろしていて、何もまとまらない。諦めて本に手を伸ばしてみるがうっかりすると文字がみみずになって理解可能性の外側へ這い出してしまう。

Twitterを眺めていると19年前の今日、Pierrotの「MAD SKY -鋼鉄の救世主-」が発売されたという情報が流れてきた。そのTweetに貼ってあったPVを再生して、これまでの19年間を嘘にした。鋼鉄の救世主が「必要のない景色だけを消滅させ」て、ぼくは中学生になった。2分20秒後、ぼくはどうしようもない形だけの大人に戻った。

どこに出すわけでもない短歌ができた。たいした出来でもないがイマージュとしては面白いのでここに載せて供養する。
<見ざる言わざる着飾る首のないマネキンたちの地下遊戯会>

頭が痛い。

「享楽の意義」と「自殺の伝染病」と

たしかアルツィバーシェフだと思った、人間が他人の自殺するのを止めることは僭越だという意味のことをいった。つまり彼の考えではこの世に生きている人間は、少なくとも何等かの意味でこの世を享楽し得ることの出来る人々である、だからそれができない人間が自殺するのはあたり前で、それを他人が止めだてする必要はないというのである。ちょっと聞くと冷酷だが、僕なぞには如何にも真理の如くきこえる言葉である。

上記辻潤の「享楽の意義*1」からの引用だが、辻が言ってるのはおそらくアルツィバーシェフの「自殺の伝染病*2」で間違いないと思う。

アルツィバーシェフは「自殺の伝染病」で、若い女に「何のために生きなければならないのか、どうして死んではいけないのか」と言われて

人生の事実そのものの中に喜びを見出している者のみが生きるべきである、そこに何物をも見ないものは、彼等は実際寧ろ死ぬべきである

と回答したと書いている。

アルツィバーシェフも回答するにあたっていくらか逡巡したようで、他の回答ができなかった理由も書いている。要約すると次のようになる。

<私は人生の美しさを語る言葉を持っているが、彼女にはそれ以外のものが必要だった。私は文学や芸術など自分の生を充実させる術を持っているが、彼女にはそれが与えられなかった。私に残された唯一のアドバイスは、民衆の幸福のために教師になって子供達に教育を与えることだが、それは私自身従事することを欲しないが故に、それを勧めるのは偽善でしかない。そして偽善は破滅と悩みを与えるだけだ。>

確かに彼の回答は冷酷に聞こえる。それに自分がアルツィバーシェフの立場だったらかなり言いづらい回答でもある。それでも本当のところどう考えているのかといったら、ぼくはアルツィバーシェフの言っていることをたどたどしく回答することになるだろう。アルツィバーシェフのいうことはもっともだし、そりゃそうだよなあとしか思えない。

でも悲しくないか?と思う。

気がついたら親とかいう得体の知れない生き物に生活を管理されていて、学校に行け勉強をしろなどと言われ、おとなしく勉強していれば何か報われるかと思ったら、労働のための下準備でしかない。あれ、ぼくは働きたかったのか?まさか。それでも働くのが当たり前みたいな顔した両親教師その他大勢に囲まれていつの間にか「働かない」という選択肢なんかないみたいな状況になっている。「小学校の時に書かせられた将来の夢ってのはありゃ一体なんだったんだ?」などと思いつつも仕方なく就職して金を稼ぐようになりました。それで? 次は結婚して子供を作れ? もっと稼いで家を買え? それで? それでなにかあるかといったらなにもない。わけのわからない世界に引っ張り込まれて、楽しいことの一つも見つけられませんでしただからもう死ぬしかないよね、じゃあまりに悲しすぎるだろ。無理矢理にでも楽しまないと割に合わないだろ。

それでもひとつ救いなのが「もう死ぬしかないよね」ってなった時点で、それまでの価値観とか常識が完全に間違っていたのが判明することだ。まっさらの状態から吹き込まれるわけだから仕方ないのだけど、教わったことをただ鵜呑みにして正当性を検証してこなかった。教わったのは極端にいうと周りの大人の偏見だ。大人同士だったらまだ意見の違いを尊重するという視点もあるが(あやしいものだが)、子供相手だとその視点がすっぽり抜けてまるで自分の意見が唯一の正解だとでもいうような顔で子供に覚えこませてしまう。大人だとか世間だとかいうのがそもそもデタラメだった。周りの大人も世間も正解なんかは持っていないのだ。だったらそれまで持っていた旧来の価値観はぶち壊してもいいんじゃないか?自分の価値観で生きられるんじゃないか?少なくともその意志を持つことはできるはずだ。そうしなきゃもう死ぬしかないってとこまで来てるんだからもうやるしかないよね。

めちゃくちゃやって好き勝手に生きてるような人間がぼくには美しく見えるよ。

*1: 

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

 

 

*2:アルツィバーシェフ「作者の感想」所収。Amazonにもなかったので気になったら図書館か古書店でお求めください

THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY、通称リミスリ

「limit of sleeping beauty 画像」の画像検索結果

映画をみた。『THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY』。リミットオブスリーピングビューティー、通称「リミスリ」。
錯乱した女の現実と妄想と思い出のミックスジュース的な作品です。とっても最高でした。
どれが現実で妄想で思い出かっていうのは普通にみてれば初見でも大体分かるようになっています。前衛的すぎて解釈不能みたいな作品ではないです。

生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ

主人公オリヤアキは女優になりたい。恋人は突然いなくなるし、夢は叶わないしで気づいたら29歳。「これからどうしたらいいのよ」ってなったアキが、過去と現在、現実と妄想の間を行ったり来たりして、いまの現実に向き合っていく。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」ってセリフは序盤と終盤で出てくる。序盤では問題提起として、終盤ではアキの決意表明として。これがこの作品の一番重要なテーマでした。

これが問題になるのは「もうなにもかも終わってしまった」ような感覚に陥った時だと思う。今さら何をしても意味がないというような虚無感と共にある疑問だと思う。

アキは頭がぐちゃぐちゃになりながらこの問題に取り組んだ。生きるべきか死ぬべきか。答えを出すには過去を振り返るしか方法がない。そこに妄想が挿し挟まったのは、無意識の防衛機制が働いた結果で、アキが直視できなかった過去から逃れるためなのだと思う。

屋上

屋上のシーンが好きだ。真ん中にでーんとベッドが置いてあって、周りに家具が並んでいる。ベッドの背景に椅子だとか地球儀だとか女性の像だとかが雑然と置かれていて、そのさらに向こうには他の建物が立ち並んでいる。このよくわからない空間がデペイズマンみたいな効果を出していてよかった。

アキがブッチと話してる時、ひとりでいる時、つまり恋人のカイトがいなくなった後の屋上には、まさに「もうなにもかも終わってしまった」ような投げやり感がどことなく漂っていて居心地がいい。ダメになることは、それはそれで気持ちのいいことだ。自由の同義語といってもいいかもしれない。自由になるということは価値を持たないということだ。何かに価値を感じていたらそれからは自由になれない。たとえば社会を無価値にしたら社会から自由になれる。夢や人だって同様だ。アキは女優になることからもカイトからも自由になるために「もう忘れてもいいかな、でも忘れたら生きていても仕方ないなあ」なんて思いがあったんだと思う。

ブッチ「時間って、実は流れていないんだよ。過去・現在・未来がすべて同じ空間の中で同時進行してる」
アキ「じゃあ一番幸せな時間に飛ばしてよ」

みたいな会話があったんだけど、アキが一番見たかったのはカイトが居た最後の夜のことだったんだろうなあ。これも屋上だった。上述したよくわからない空間が特別な夜の演出効果を上げていたように思う。うつくしい時間だった。話が先に進まなければいいのにとすこしだけ思ってしまった。 

TRAILERを見て! 

屋上だけじゃなくて、アキが働いてるサーカス小屋だったり、あやしい錠剤入りのジントニックが出てくるクラブだったり、映像的にかなり好みだった。カイトがどこか現実から遊離したような雰囲気を出しつつ包容力も感じられる完全なイケメンな上、いなくなり方がタイミング含めてのらねこ的だったのもよかった。そもそも家出した女がバーでイケメンに拾われるなどという少女漫画式キリストの降臨みたいなシチュエーションからして最高。あるいはアキの錯乱加減もよい。「時間は流れてない」だの「世界はお前のもんだ」だのというブッチのセリフもよい。

www.youtube.com

このTRAILERをみた瞬間にこれは劇場に行かなきゃと思った自分の直感は間違っていなかった。予告ってわりと本編よりも面白く感じたりすることが多いと思うんだけど、この作品はそういう落差がありませんでした。このTRAILERをみて興味が出た人はきっと満足できると思います。

公式サイトで別バージョンのTRAILERもみれます。

ぼくはどこにいる?

これの続き。
街にいる人がその頭の中にいるとは思えなくなってしまった。
ではぼくは?
ぼくはどこにいるのか?

この身体がぼくなのか?
ぼくの身体はぼくではない。
ぼくの脚はぼくのものであり、ぼくの手はぼくのものである。
要するにぼくが保持しているものであってぼくそのものではない。

ではぼくはこの身体の中にいていろいろなものを感じているのか?
しかしこの感覚もぼくではない。
それはぼくが感じたことであってぼく自身ではない。

ではぼくはその感覚刺激を受けているとされる脳か?
それもぼくではない。脳は意識ではない。 
脳をぼくだとしてしまうとそれこそ哲学的ゾンビ*1になってしまう。

身体も感覚も脳もぼくが所有しているものだ。
ではそれらを所有しているぼくはどこにいる?

ここはどこなんだ?

時間を忘れたい

時間はずっとぼくから離れずについてきている。ぼくが進んだ分だけ時間も進む。時間がぼくを置いていくことはない。時間の一単位をどれだけ細かく区切ってもぼくが存在しない瞬間はない。ぼくが存在しないとき、時間も存在しない。時間とぼくは常に一対一だ。

しかしそれは錯覚ではないだろうか。時間とぼくを区別する必要はないのだ。そもそも時間などというものもなかった。時計が指し示す時刻は、座標空間上の一点を指し示す数値であるにすぎない。

「時間」という語も他の言葉と同様、あるがままの自然から「時間」と「時間でないもの」を区別するために人間がつくったものなのだから、区別する必要がなくなったらもう不要だ。普段わざわざ住所に日本国などと書かないのと同じように。

大体こんなに離れがたくくっついているものがぼくでないことがあるか?
仮にぼくが時間を欠損したとして、そのときぼくがどうやって存在しているのか想像もつかない。

これから待ち受けている時間も追い立てられる時間もどこにもない。死ぬまでの時間の長さに重圧を感じるぼくや残された時間の少なさに追い詰められるぼくがいるだけだ。「時間は嘘である」と無意識のレベルで承認できればそれだけで解放されうる苦しみなのだ。 

 
これらの悲鳴は時間を忘れたい一心で書いています。

およそどんなことだって死ぬまで信じ込むことができればなんでもよいのだと思います。狂気を根拠に何かを信じることができればそれが一番素敵なことです。