夏の骨格

2018/07/27

13時過ぎに退社した帰りに小説のリングシリーズ(リング/らせん/ループ/バースデイ)をまた入手しようと思ってブックオフに行ってみたら、らせんとバースデイしかなかった。肝心のリングがないのでとりあえずその場で購入するのはやめた。鈴木光司の他の小説が並んでいて、楽園とシーズザデイとアイズとそのほかだった。どれも読んだことはない。中をチラ見したらちょっとした経歴が書いてあった。あんまり詳しいことは覚えていないけど、1991年に「楽園」でファンタジーの賞を取ってデビューした翌年にリングを出版、映画化し大ヒット、そのあとに出した作品でもいくつか賞を取っていて、当時かなり勢いのある作家だったんだろうということを知れた。リングシリーズだけの一発屋だというイメージは今更になって覆された(映画にもなった「仄暗い水の底から」はリングが異常に流行ったおこぼれみたいに思っていた)。

帰ってきてハルヒ15話から見始めた。エンドレスエイトの何回目かで、細かいところで変わっているのはわかるんだけど、大枠として視聴者の興味は満たされない。つまり最後にハルヒがカフェだかファミレスだかを出て行くときにキョンが声をかけること、繰り返す夏休みを終わらせるということが繰り返し繰り返し成就されないのだから退屈するのは当然の話だ。逆にこれをみて退屈しないでいられる人がもしいればよっぽど創造性の高いオタクなんだろうなと思う。それはすこし羨ましい能力でもあるが、いまのところぼくには備わっていないらしい。そんなわけで強い眠気に襲われ、気が付いたときには3時間ほど経過していた。十分睡眠が取れたところで再挑戦したら、今度は残り少なかったということもあって乗り切ることができた。それでもやっぱり退屈は退屈だったから集中できていなかったことは否めない。次回の粘菌歌会に出す「平成最後の夏」短歌をつくりながらの視聴だった。むしろハルヒの方がついでくらいの意識の割り振りだったので乗り切れたのかもしれない。ともかく応募する短歌がひとまず完成してからは再びハルヒに集中した。やっとエンドレスエイトが終わった〜という解放感が染み渡りここからはさくさく進めようと思ったのもつかの間、今度は映像がちょくちょく止まるようになった。しょっちゅう止まる映像に耐えながらなんとか21話の最後まで視聴して今日はそれでやめることにした。

エンドレスエイトでもそのあとの話でも学ぶことはあった。

エンドレスエイトの初回では、やろうと思ったことをちゃんとやるという意識の大切さが学べた。きれいごとのようなニュアンスじゃなくて、生を拡張させるという意味でこれはかなり大切なことだ。ジョン・キャロルがシュティルナーの思想について解説した「自我の最高の共鳴としての独自性、完全性、力の感覚は、関心の跡を追ったとき、自信にみちた自発的な行動に出るとき、極地に達するのである。」という表現とも一致する見解だと思う。それに脳科学的な観点からいってもこういうときこそドーパミンが放出されているのだろう(内発的な動機+成功イメージ+目標達成)。夏休みが繰り返される中で感じたのは「正しい道を辿らないと先に進まない」という世界観のなかで生きると、メメントモリとは逆の意味で「いま」に帰着するということだ。素朴な生の体験の上では、どんな行為を選んだところで同じ日を何度も繰り返すなんてことはないのだけれど、仮に「本当のところはそうなっているのだ」と信じ込んだ場合、ひとつひとつの選択肢はきっと重要性を増しているはずだ。どれもが同じだけの重要性を持つものではないにしても、なにかクリアしなくてはいけないことがクリアできない限り先には進めないのだ(作中ではハルヒが感じている物足りなさを解消する必要があった)。なんとなく時間が過ぎて行くことが許されない世界観では、空気を読んでいる場合ではないと思うに違いない。したがって自分の意見を明確にする必要があるだろう。それで足りなければ意見を押し出す必要も出てくるだろう。空気を読んで遠慮していたところで、必要なことをやらなければ延々同じことを繰り返す羽目になるのだ。ただし、正直なところその世界観自体はどうでもよくて、それがもたらす集中力だとか行動力が欲しいのだ(関係ないが、ニーチェ永劫回帰説を自然現象としてあり得るかどうかという観点で語られるような話がナンセンスに感じる理由もそこにある)。これまではそういった視点をなるべく日常的に保持するためにメメントモリ的なアプローチを用いていたけれど、真逆のアプローチもあったのだなというのが今回の発見だった。

第21話「涼宮ハルヒの溜息II」については、キョンの「なんでわざわざ未来から来たことにするんだ?/べつに未来人じゃなくてもいいじゃねえか」という質問に対する答え、「そんなもん突っ込まれたときに考えればいいのよ、考えても思いつかなきゃ無視しときゃいいの。面白ければなんだってOKよ」というセリフに現在性指向のハルヒの思想が発揚されていて共感できた。どうしても小難しく考えてしまうことがあるが、そんなときに思い出せたら案外探していた答えにハッと気づけそうな潔さがある。

散らばったわたしの破片で傷つくひとがいる。*1 

屋上の縁に立って飛び降りようとしていた女生徒がやっぱりやめて屋上から出ていく姿のあとに、これを読み上げてエーシーなどと流したら完全に公共広告機構じゃんと思った。*2

冬日さんのブログは前から読んでいていいなあと思っていたので、本があることに気づいてすぐ買ってしまったというわけです。

*1:

灰かぶり少女のまま

灰かぶり少女のまま

 

*2:なんとなくこれを想起した。

www.youtube.com

かさほた4

傘と包帯 第四集 *1を公開しました。

ブログには書いていなかったけど、昨年の4月から「傘と包帯」というウェブ詩誌をやっています。だいたい季節ごとにやれればいいかなと思っていましたが、昨年は4月、8月、12月と公開できました。4ヶ月ペースです。今年もそれくらいのペースでやれればいいかなと思っています。

テーマは設けていません。個性を出してくださいとだけ伝えて書いてもらっています。嬉しいことに、希望通りそれぞれの個性が感じられる作品ばかり集まっています。

知ってるよという方も、いま知ったという方も、読んでもらえると嬉しい。反応があるともっと嬉しい。

Twitterでなにか書かれる場合は「#かさほた」というハッシュタグをつけてもらえるとこちらから見つけやすいです。

散花集の花序

散花集が100個できました。

記念に散花集の正体をすこし書いておきます。

花は咲いたままではいられません。人間はやがて死を迎えます。存在はそれまでの一時的なものです。確かにそこにいると思える人物もやがて昔そこにいたという空想に成り代わります。人間的合理性は自動的に崩壊します。

だけどそこにぼくはいないのです。ぼくはぼくの生きている内に合理性を破壊したい。窮屈な現実を拡張したい。そういうささやかな反抗がカフカマグリットに死を学んだぼくの散花集です。

花は散ります。有機体は解体します。存在は空想です。有機体とはみなさんのことです。そういうことです。

note.mu

 

追記(2018/04/15)

noteのマガジンは100個しか追加できないようなので、今日からは下記のマガジンで続けていきます。

note.mu

日記9:髭

髭が邪魔だ。毎朝出社する習慣が無くなった今となっては髭を剃るのも億劫になってしまった。別段濃い方でもないが一々剃るのは面倒だ。こんなものは寝て起きたらつるんと無くなっていたらよいのだ。一応寝る前にはそのように髭の神様にお祈りしているが一向に無くなる気配がない。あまり不躾な願いだから向こうで気を悪くしたのかもしれない。もしかしたら一本一本に名前なぞ与えて自分の子供のように思っているのかもしれない。であるならとんでもない馬鹿だ。祈るのも金輪際よそうと思う。世の中には他人の毛を抜いて生活している素晴らしい団体もあるようだが、そういうところは髭だけでなく金まで持っていくつもりなのでいまのところは遠慮している。大体望んでもないのになんで生えてくるのか。人の顔だぞ。苔でさえ気を使って避けてる。人の顔はどれだけ洗ってもなぜか美しくならないんだ。褒めるところがない人に向けた「清潔感を出せ」というアドバイスを聞いたことがあると思う。せめてそこだけでも空気を読んで顔面の環境保全にご協力願いたい。こちらの希望は充分伝わっていると思う。いままでも散々いらないとか邪魔だとか結構ダイレクトな精神攻撃を無意識レベルのテレパシーで断続的に与えている上に、もう何年も剃刀による物理攻撃まで加えている。それでも平気な顔をしている。どう考えても宿主より強いだろう。もう独り立ちしてもいいんじゃないか。皮膚もそう言ってる。たのむよ。

日記8:歌とミザントロープと散花集

夜。月が充血して人間が興奮している中、お嬢さんとカラオケに行った。aikoとかXとかおよそまともな成人男性なら避けて通るようなのを歌ったけど、高いところも予想より楽に出た。腹筋が付いたのかもしれない。じつは12月あたりから軽く筋トレをしていたのだ。最近さぼってたけどまたやろうかなという気になった。お嬢さんはラルクの侵食を歌っていた。見るたびに思うけどMVがほんとかっこいい。やっぱりラルクはこの時期が最高だよなあと思ったけど、思い出補正なのかもしれない。

1月はミザントロープがひどかった。ネットで人間の活動をちらっと目にした瞬間に胃に革命の準備が走りだすレベルだ。だからTwitterもほとんど見なかった。そんなわけで時間が余る。寝るのにも飽きていよいよ退屈になった。金がなくて時間があるという状況は資本主義にどっぷり浸かった現代人の軟弱なメンタルを鍛えるには申し分のない環境だった。ちょっとしんどかったけど、まだ落としきれていなかった「なんでも金で解決しよう」とするいわゆるお客様根性的な刷り込みをまたちょっと落とせたかなと思う。他人にやらせるのが資本主義だ。自分でやれば金も使わないし退屈もマシになるだろうということはちょっと考えれば分かる話だ。もちろんそれでぜんぶが解決するわけじゃないけど、釈迦が言ってたのも現象レベルではこういうことじゃないかと思う。神さまとか鰯の頭とかに人生をお任せする決心がつかない人間は、自分の力の範囲の唯我独尊でなんとかやっていくしかないのだろう。いまはミザントロープの反動がきているようで、もっと人間と関わろうという気分になっている。

散花集*1というものをつくっている。空想スケッチのような小品のコレクションです。しばらく更新してなかったのだけど、またぽろぽろ散らしていこうかと思っている。noteで公開しているので、チェケラしてください。いいねしてください。コメントしてください。サポートしてください。

日記7:金と女

あけましておめでとうございます。いままで考えたこともなかったが、この挨拶は年末を無事に乗り越えて一安心という意味合いの挨拶だったらしい。年末に「よいお年を」と挨拶をするのも、うまく年末を乗り越えましょうねという意味なのだそうだ。*1

こんなことをわざわざ調べたのは、よい年などというものがないなんてことは良識ある大人なら分かっていて当然のことなのにどういうつもりでこの挨拶があるのだろうと思ったからに他ならないが、もしかして人知れず世間に増殖していたダダの黴菌だろうかと嬉しくなっていたため、調べた結果がこれでげんなりした。

年が明けてからほとんど外に出ていないがどうにか初詣には行くことができた。その際に目をつけておいた木があるのだが、これは個人的にこれから推していきたいと考えているメンバー(世界というグループの一員)だ。昼となく夜となくぼんやりしていると人間社会の流れに取り残されてしまっていて、気づいたら二週間近く経っている。そのスピード感の違いから人間種族との交流が難しく思えてきたということもあって、この子に穿った穴を日々参拝している。穴を覗き込んで満足しているところをフロイトとかいう変質おやじに見つかりでもしたらすぐに無意識の欲望を世界中に暴露されてしまう恐れがあるが、奴もとうにくたばっているはずなのでその心配は要らない(そもそも日々参拝しているというのがレトリックの一種であって事実ではない)。

しかしトリスタン・ツァラが何かのインタビューで堂々と回答していた「人生でいちばん好きなのは金と女です。」というのがいまさら真に迫ってきているのも事実だ。これがあまりにも真実に近いので次に行き合った人間に突然この言葉をこの世の真実として告白したいくらいには何かが高まってきている。何かというのはいうまでもなくぼくの社会性のことであるが、いまはまだ冗談で言えるこの言葉も、しまいには冗談でなくなってしまうのが人生の恐ろしいところで、欠乏の度が昂じてくるにつれだんだん危険になってくる。「姉さん事件です」という声が夏の日の蝉のようにしつこく鳴り続け、流れる雲に混じって高嶋政伸の顔が空中に申し訳なさそうに浮かんでくるあたりで頭が朦朧としてきて、体内の柔らかい部分から事件がどろりと世間に漏れ出してしまう。金のために常軌を逸した人間などはいくらでもあるし、女のために気が狂ったやつらはよく結婚というものをやっている。たいへんだ。その後で正気に戻らなければまだいいのだが、たいていは手錠が嵌められた時点で正気に戻ってしまう。ほんとうにたいへんなのだ。

*1:

昔の日本では大晦日(おおみそか、12月31日のこと)を迎えるまでには沢山のしなければならないことがありました。(一部は今でも残っています)

1.支払い。昔は日用品をつけ(クレジット)で買い年末に清算していた。この支払いが出来るかどうかが庶民にとっては一番の心配ごとだった。
2.大掃除
家中のチリを払い、障子を張替え、畳を干す。最後に神棚や仏壇の拭き掃除。
3.すべてが終わると年越しそばを食べて一年の無事を喜びあい、新しい年が無事迎えられることを神仏に感謝しお酒を飲んだ。

年末に外出先で知人に会ったとき、これらのすべてのことを念頭に「今年もいよいよ終わりですね。大晦日を迎えるまでいろいろ大変でしょうが、お互いにがんばりましょう。どうぞ良いお年を(無事大晦日が迎えられますように、夜逃げなどしなくて済むように)」と挨拶したわけです。

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