夏の骨格 口蓋骨編

2018/07/31

家に帰ると本が届いていた。現代詩手帖ユリイカ詩と思想の最新号だ。ユリイカの「今月の作品欄」にnoteでフォローしているResuさんの作品が掲載されていた。なんでぼくの詩は掲載されないのだろうと考えたところ原稿を送っていないからだということがわかった。宝くじも買わなきゃ当たらないが買えば買うほど売る側がたくさん当たる仕組みになっているのである。買ってると思っていたらいつのまにか売ってる側だったという詩的イリュージョンを身につけて、小説の方が落ち着いたら応募してみようと思っている。

渋谷で待ち合わせをしていたので一度帰っては来たがそれから少ししてまた外に出た。渋谷に着いて人の多さにうんざりしながら自動販売機で何気なく買ったミニッツメイド クラフツ ミントレモネードを飲むと目の覚めるようなおいしさだった。合流してからすこし歩いて野菜に自信がありそうなお店に入る。入ったはいいが料理について語りたがる店主の話を自分の中でなにひとつ濾過できなかった。食べられることがありがたいのでそれ以上のことは念仏みたいなものだ。成仏してえなあ。同席していた相手がアイスを食べたいというので店を出た後にマークシティに寄ってアイスを食べた。ただそれだけしかしていないのに帰る頃には体力が底をついていた。なんでだろうと考えたがおそらく睡眠不足のせいだろうと思う。昨日と一昨日とどちらも五時間も寝てない気がする。朝は眠いし日中も眠い。なにやってんだろうな。

さめほしさんが参加しているグループ展にあとで行こうと思っていたら明日が最終日だった。「海に行こうよ」というグループ展をやっていることは前から知っていたのだがまさかこんなに早く終わるとは思っていなかった。明日が最終日ということで17時には閉めるようだ。だいたいこういう展示のイベントは搬出の都合上、最終日には早めに切り上げられてしまう。17時には行けそうにない。さめほしさんの絵はTwitterで見かけるたびによいなあよいなあとしか言えなくなる程度の言語中枢への集中的な麻痺が起こるほどの良さがあったわけだが、今年の春(4/13-18)にやっていた個展「崩壊と形成」を見て、自我の溶解とその境界におけるギリギリの成就されなさに前頭前野を射抜かれてしまった。こんな詩的な絵はそうそうない。グループ展に行けないことの実感がだんだん強く感じられてきた。あと一日でも早く気づけていたらと思うと残念でならない。

原稿はなにも進んでいない。

夏の骨格 大腿骨編

2018/07/30

投稿用の小説について具体的に考え始めた。とりあえずなんのアイデアもないながら期限は二ヶ月しかないのでざっくり計算して一ヶ月毎日一万字書いて残りの一ヶ月で推敲すればいいだろという安易な計画で、わざわざ電車に乗って良さげなコワーキングスペースに行き、愛想のない店員にうろたえてから借りてきた猫のように入店したわけだが、ここで費やした二時間がもたらしたものは計画を練り直せという当然といえば当然のような結論だけだった。もちろん一文字も進んでいない。これはまずいと思ったが、そこで飲んだピーチピンクフルーツフラペチーノがうまかったこととは相殺できないので、もう少しちゃんとやらないといけない。ちゃんとやらないといけないと思っていても何も進まないというのはわかりきった話で、具体的な行動にして進めていかないといけない。そう思ってコワーキングスペースを出るとなぜか足がシーシャ屋に向かった。店内は凄惨な様相をしていて、入り口では人間の臓物めいたなにかに手を突っ込んだ店員が朗らかな笑みをこぼしていたのだが、これはマフィアの下請けが裏切り者の肉塊を処理していたわけではもちろんなく、シーシャに使うフレーバーのシロップがだだ漏れしていただけだった。大変だよねと思いつつぼくはその脇で、これが事態を好転させる唯一の方法であるかのような真剣な面持ちで煙を吸っていた。リラックスしている時の方がアイデアが出やすいというのはよく聞く話で、例に漏れずいくつかのアイデアが浮かんで来たので少しは前に進んだ気がしている。

ここ二三日文章を公開しているが、過去に向かって書かれたようなこんな文章を公開してどうなるのかと考えないこともない。とはいえ飽きるまではやるだろう。飽きたらやめる。なんにせよこういうことを書いた直後が一番やらなくなってしまいがちだということはわかっているがそういうかっこ悪さも含めてなるべく正直でありたい。

2018/07/29の続き

2009年放送版ハルヒの残りと、消失(映画)をみた。消失は当時映画館でみてめちゃくちゃおもしろいなと思って普段は絶対買わないDVDまで買ってしまったくらい好きな作品なので改めて観てもやっぱりおもしろい。ある日目が覚めたらハルヒのいない世界になっていて、そこからなんとかして元の世界に戻ろうとするキョンの執念が最高なのである。実際に目の前に繰り広げられているさして不都合もないような世界、なんならそのまま居座った方が快適に暮らせそうな世界よりも、周りの人物や状況すべてに否定されつつも世界中のだれも知らない本当の世界に戻ろうとする意思がたいへん美しい。おかげでモニターに「YUKI.N>」と映るだけで涙が込み上げてくる体にされてしまった。こういう信念の話はよい。自分以外のすべてが変わり果ててしまって、それでも自分の意思を曲げないでいるのはどれだけ難しいことだろう。そしてどれだけ美しいことだろう。べつにこれはアニメに限ったことでもない。この馴染み深い現実世界の中で日々を過ごしている人々にだってそれぞれ「こうありたい」だとか「こうであったらいいのに」というようなイメージがあったりするんじゃないのか。それはキョンが戻りたいと願った「あるべき世界」と本質的に同じなんじゃないのか。それを固持することは誰にとっても難しいだろうけれど、使い捨てであるべき客観的固定的現実社会を、理不尽な目に遭いながら抱いてきた各人各様の「あるべき世界」よりもありがたがる必要なんかないだろ。そんなことを思った。

夏の骨格 肩甲骨編

2018/07/29

頭痛にやられて何もできないでいる内に日が変わってしまった。同居人に「きみは頭痛持ちだもんね」と慰めの言葉を掛けて頂いたのだが、ぼくは金持ちとの格差に愕然としてしまった。どちらも生得的な性質であって選択権は与えられていなかった。これはものの例えだが、池から女神が現れて「あなたが落としたのは頭痛ですかお金ですか」などと訊いてくるような体験もぼくにはなかった。自助努力で財を成した人間がいるだろとお叱りの声が聞こえてきそうだが、ぼくが金持ちと言われて想像するのは、生まれ育った環境がすでに十分以上に整っていて金のために自分が何かをするという発想を持ち合わせていないような人種のことなのだ。総資産額で人間を測るような器用な真似はぼくにはできない。自分で財を成したと言われるとどうしても紙幣に火をつけて「どうだ明るいだろう」と言うような人間像しか描けないのだ。一代で財を成した人物をディスっているわけではない。そういう人物が周囲にいた試しがなく、テレビやネットで見かける有名人でしかないため、教科書でみた成金の絵以上のリアリティを感じられないということなのだ。あの絵にリアリティがあるというわけではないが、具体的に金持ちというイメージを持ち合わせていなかった当時のぼくにとってひとつの人間類型を植え付ける程度にキャッチーなイメージではあった。今後ぼくに金を垂れ流してくれるような実業家の人でも現れるならばその時にイメージを刷新するくらいの準備はあるのでいまのところは見逃しておいてほしい。ちなみに池から女神が現れても正直に答える勇気はない。

日中は友人と遊んだ。カレーを食べて本屋をうろついてダーツをした。本屋では栗原康『何ものにも縛られないための政治学』とアラン・セルジャン『アナーキストの大泥棒』を購入した。5400円。前者は以前読んだ伊藤野枝の伝記が最高に面白かったため、後者は帯の「稀代の大泥棒にしてフランス最後のアナーキストのモノグラフ」という煽り文を見てぼくの変人好きが刺激されたため、購入するに至った。眠いので今日はこれで終わり。

夏の骨格 胡蝶骨編

2018/07/28

試験的にiAWriterというエディタを使い始めた。しばらく愛用していたBywordの挙動が久しぶりにおかしくなったからだ。発生しているのは、最大化するとファイルの上の部分が一部見えなくなってしまうという事象なのだが、最大化しないで使うということがほぼないため、これでは困るわけだ。これまでにも同じような症状が何度かあり、そのたびにいいエディタがないか探すのだが決定的な代替品を得ることができていなかった。そうこうしている内になぜか直ってしまったということの繰り返しで、何度も同じ症状を目撃していながら有効な回復手段をいまだに持ち合わせていない。そんなわけで今回も例によって代替となるエディタはないだろうかと幾度目かの探索に乗り出したというわけだ。ずっと以前からiAWriterは存在していたし、目にも入っていたのだが、有料でそこそこ高かったからスルーしていた。ぼくが求めている最低条件は、MaciOSとの間でシームレスに同期してくれることだ。Bywordはその点ふつうにクリアしていて、加えて見た目のシンプルさと使いやすさがあった。いま使用している感じだとiAWriterもその点は問題なさそうだ。それに加えてライブラリ機能もあってファイル選択が容易だ。こういう機能も欲しかったということを思い出した。それもあって金を払う気になった。

それとは別にFlowstateという異質なテキストエディタも購入してしまった。これは5秒以内に書かないとそれまでに書いた内容が消えてしまうというものだ。書き終わるまでの制限時間も設定できる。自動筆記するのに便利そうだ。

今日は朝から眠かった。戸塚に行く予定もあったので、時間までツァラ詩集を読んで今日は終わりだなあと思っていた。台風がひどいということで昼過ぎくらいに戸塚行きは中止になった。そうなると時間が空いてしまう。だけどなんだか気持ちが落ち着かなくて何かを始められるような感じでもない。何も考えずハルヒを見始めた。22話から26話までみた。ちょうど文化祭に出展する映画制作が無事に終わって、文化祭当日を迎えて、軽音部に混じってハルヒが歌うところまでの話だ。

長門キョンに対してみくるビームの説明をしているシーンがあって、なにやら聞いたこともない専門用語を使って難しいことを言っていた。そういうのを聞くと少し興味がわいてしまう。理解できていなかったことを理解するというのは、いま自分が描いている世界を再構築する術を得るということと同義なので、すでに馴染み深いものとなってしまった了解済みの世界の有り余る退屈からこっそり抜け出すことができるかもしれないという期待を少なからず抱いてしまうのだ。独学で勉強するのもありかなあと思うのだけどまずどういう方面の書籍で知識を補充する必要があるのかとかその辺からつまづいてしまう。というかこういうことはすでに何回もあって、だから今回はつまずくところまでいかない。まずその勉強の目標となるものがないということにあらかじめ気づいている。勉強した結果としていま想像し得るなにかを得たいと考えているわけではないので、ゴールの設定ができない。学問的情熱にそそのかされて始めるわけではないのだから、わかりやすい目標設定もなしに自分にそれを学ぶための行動を強制し続けるのがたいへん難しい。というわけで今回のこの好奇心の芽は摘み取ることにした。

ただし長門が肩にシャミセンを乗せている図は非常によいものがあったので、ぼくもそこらをうろついている猫のなかで運命を感じるような相手を見つけ次第、正式にプロポーズしたいとは思っている。猫を肩に乗せて歩いている人間、これこそ完成図という感じがする。前川佐美雄の「ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし」という短歌に異常な愛着を抱いてしまう心理的根拠はそこにあった。いまハッキリとわかった。ありがとう長門。ありがとうハルヒ

夏の骨格

2018/07/27

13時過ぎに退社した帰りに小説のリングシリーズ(リング/らせん/ループ/バースデイ)をまた入手しようと思ってブックオフに行ってみたら、らせんとバースデイしかなかった。肝心のリングがないのでとりあえずその場で購入するのはやめた。鈴木光司の他の小説が並んでいて、楽園とシーズザデイとアイズとそのほかだった。どれも読んだことはない。中をチラ見したらちょっとした経歴が書いてあった。あんまり詳しいことは覚えていないけど、1991年に「楽園」でファンタジーの賞を取ってデビューした翌年にリングを出版、映画化し大ヒット、そのあとに出した作品でもいくつか賞を取っていて、当時かなり勢いのある作家だったんだろうということを知れた。リングシリーズだけの一発屋だというイメージは今更になって覆された(映画にもなった「仄暗い水の底から」はリングが異常に流行ったおこぼれみたいに思っていた)。

帰ってきてハルヒ15話から見始めた。エンドレスエイトの何回目かで、細かいところで変わっているのはわかるんだけど、大枠として視聴者の興味は満たされない。つまり最後にハルヒがカフェだかファミレスだかを出て行くときにキョンが声をかけること、繰り返す夏休みを終わらせるということが繰り返し繰り返し成就されないのだから退屈するのは当然の話だ。逆にこれをみて退屈しないでいられる人がもしいればよっぽど創造性の高いオタクなんだろうなと思う。それはすこし羨ましい能力でもあるが、いまのところぼくには備わっていないらしい。そんなわけで強い眠気に襲われ、気が付いたときには3時間ほど経過していた。十分睡眠が取れたところで再挑戦したら、今度は残り少なかったということもあって乗り切ることができた。それでもやっぱり退屈は退屈だったから集中できていなかったことは否めない。次回の粘菌歌会に出す「平成最後の夏」短歌をつくりながらの視聴だった。むしろハルヒの方がついでくらいの意識の割り振りだったので乗り切れたのかもしれない。ともかく応募する短歌がひとまず完成してからは再びハルヒに集中した。やっとエンドレスエイトが終わった〜という解放感が染み渡りここからはさくさく進めようと思ったのもつかの間、今度は映像がちょくちょく止まるようになった。しょっちゅう止まる映像に耐えながらなんとか21話の最後まで視聴して今日はそれでやめることにした。

エンドレスエイトでもそのあとの話でも学ぶことはあった。

エンドレスエイトの初回では、やろうと思ったことをちゃんとやるという意識の大切さが学べた。きれいごとのようなニュアンスじゃなくて、生を拡張させるという意味でこれはかなり大切なことだ。ジョン・キャロルがシュティルナーの思想について解説した「自我の最高の共鳴としての独自性、完全性、力の感覚は、関心の跡を追ったとき、自信にみちた自発的な行動に出るとき、極地に達するのである。」という表現とも一致する見解だと思う。それに脳科学的な観点からいってもこういうときこそドーパミンが放出されているのだろう(内発的な動機+成功イメージ+目標達成)。夏休みが繰り返される中で感じたのは「正しい道を辿らないと先に進まない」という世界観のなかで生きると、メメントモリとは逆の意味で「いま」に帰着するということだ。素朴な生の体験の上では、どんな行為を選んだところで同じ日を何度も繰り返すなんてことはないのだけれど、仮に「本当のところはそうなっているのだ」と信じ込んだ場合、ひとつひとつの選択肢はきっと重要性を増しているはずだ。どれもが同じだけの重要性を持つものではないにしても、なにかクリアしなくてはいけないことがクリアできない限り先には進めないのだ(作中ではハルヒが感じている物足りなさを解消する必要があった)。なんとなく時間が過ぎて行くことが許されない世界観では、空気を読んでいる場合ではないと思うに違いない。したがって自分の意見を明確にする必要があるだろう。それで足りなければ意見を押し出す必要も出てくるだろう。空気を読んで遠慮していたところで、必要なことをやらなければ延々同じことを繰り返す羽目になるのだ。ただし、正直なところその世界観自体はどうでもよくて、それがもたらす集中力だとか行動力が欲しいのだ(関係ないが、ニーチェ永劫回帰説を自然現象としてあり得るかどうかという観点で語られるような話がナンセンスに感じる理由もそこにある)。これまではそういった視点をなるべく日常的に保持するためにメメントモリ的なアプローチを用いていたけれど、真逆のアプローチもあったのだなというのが今回の発見だった。

第21話「涼宮ハルヒの溜息II」については、キョンの「なんでわざわざ未来から来たことにするんだ?/べつに未来人じゃなくてもいいじゃねえか」という質問に対する答え、「そんなもん突っ込まれたときに考えればいいのよ、考えても思いつかなきゃ無視しときゃいいの。面白ければなんだってOKよ」というセリフに現在性指向のハルヒの思想が発揚されていて共感できた。どうしても小難しく考えてしまうことがあるが、そんなときに思い出せたら案外探していた答えにハッと気づけそうな潔さがある。

散らばったわたしの破片で傷つくひとがいる。*1 

屋上の縁に立って飛び降りようとしていた女生徒がやっぱりやめて屋上から出ていく姿のあとに、これを読み上げてエーシーなどと流したら完全に公共広告機構じゃんと思った。*2

冬日さんのブログは前から読んでいていいなあと思っていたので、本があることに気づいてすぐ買ってしまったというわけです。

*1:

灰かぶり少女のまま

灰かぶり少女のまま

 

*2:なんとなくこれを想起した。

www.youtube.com

かさほた4

傘と包帯 第四集 *1を公開しました。

ブログには書いていなかったけど、昨年の4月から「傘と包帯」というウェブ詩誌をやっています。だいたい季節ごとにやれればいいかなと思っていましたが、昨年は4月、8月、12月と公開できました。4ヶ月ペースです。今年もそれくらいのペースでやれればいいかなと思っています。

テーマは設けていません。個性を出してくださいとだけ伝えて書いてもらっています。嬉しいことに、希望通りそれぞれの個性が感じられる作品ばかり集まっています。

知ってるよという方も、いま知ったという方も、読んでもらえると嬉しい。反応があるともっと嬉しい。

Twitterでなにか書かれる場合は「#かさほた」というハッシュタグをつけてもらえるとこちらから見つけやすいです。