存在価値≠利用価値

「役に立つ」とか「居てよかった」とか他人に思われるような人間にはなりたくない。いわゆる市場価値みたいなものとは無縁でいたい。役に立つ人間ほど生きてる必要のない人間もいないし、居て良かったって思われている人は居なくても良かった人だ。価値基準を他人に預けるのはナンセンスだ。他人から与えられる価値に依存している人が、ひとたび「役に立たない」とか「居ないほうが良かった」とか思われ始めてしまうと、これはもう大変な話だ。大事な部分が確実に壊れていく。しぼんでいく。個性が死んでしまう。

ぼくは、その人がその人である故に行われる行為こそが、意味のない人生に最大限に意味を付与できるものだと思う。他人を不快にしたからって価値は減じたりしない。生きているだけで他人に不快感を与えてしまうのが人間なのだ。*1もちろん、他人を不快にすることにも価値は発生しない。しかし本当にその人にしかできないことなら、それによって生じるどんな不利益も確実に相殺されるのではないかなあと思う。不利益を補填することはできても彼の個性は補填することができないのだ。そういう意味で70億分の1*2でいるよりも3万分の1*3になる方が価値があるように見えるのは間違いではない。そして1分の1*4でいるのがもっとも自然で好ましい状態だとぼくは感じている。世界は、個性が生きるための場であるべきだ。人生とは、自由の実験場であるべきだ。

だからぼくが常々こうありたいと思う姿は、ぼくが唯一のぼくであることに誇りを持ち正しく自由を行使できている状態なのである。「自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。」と言ったのはルドルフ・シュタイナーだが、いつだってそうありたいものだ。

*1:ひきこもりの子を持つ親のストレス、恋心のさめた恋人の近すぎる距離、満員電車の乗客など。

*2:70億=現在の世界人口概算

*3:3万=現時点で1998年から毎年日本が達成している年間自殺者数概算

*4:1=あなた。あるいは、わたし。つまりかけがえのない個人。