錯覚の効用

 世界はどこかで終わっていて、ぼくら(自意識を保ち得る存在すべて)がまだそこにたどり着けていないだけなのかも知れないなあ、などと朝日の下で考えていると、自分なんてすでにどこにもいないような気になる。このたった一文だけでくっきり矛盾を指摘出来るほど明確な錯覚には違いないのだけれど、でもその錯覚が楽しい。楽しいということを根拠にぼくは錯覚を肯定するのです。

 そもそも恋愛だってただの錯覚でしょう。恋愛だっていつも楽しいことばかりじゃないのよなんて言うのは、それがもはや錯覚ではなくなってしまったからだ。それはやめた方がよろしい。錯覚でない以上それは恋愛でもなくて、ただの拘束遊びなのだ。不自由を享楽するなんてことはおよそ一般的ではないだろう。(ただし楽しめる人間がいるだろうことも容易に想像はつく。むしろ万人にその性質は備わっているけれどそれが発芽されるのが少数なのだと思っている。)

 それに対して結婚は一応は明確な契約を結んだ関係であり、あらゆる境界線が恋愛ほどファジーではないせいで、多くの場合、恋愛における錯覚の作用を取り去る結果となっている。

 錯覚を楽しむ者は結婚などしてはいけない。恋愛も楽しくなくなった瞬間にやめてしまうのがよい。楽しみだけは消してはならないのだ。