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予測と予知を混同して思い上がらないための信仰

 どうもわたしは決定論を信仰しているようだ。散歩の途中でふと気がついた。決定論が正しいと信じているのではなく、宗教家における神のように、祈りのように、信仰しているのだ。仮に科学的に誤りであると証明されてもなお、わたしは信仰をやめないだろう。それはまったく別の事柄なのだ。

 折りを見て挿し挟まる自分の行く末に対する感慨、おだやかに終わればいいなあというこの無責任な感覚は、「神様どうかよき計らいをお願いします」という願いに通じていて、ただわたしには信仰する神はないため擬似的に決定論を信仰しているような状態である(ラプラスの悪魔は過去現在未来のすべてを見通せるが、定義上傍観者以上の役割を与えられていないため、擬似的にもわたしの神にはなり得ない)。すなわち「よき終わりが待っていてくれ」という定められたものに対する淡い望みと「どうせ決まっていることなのだから」という諦めと「(死ぬまでは耐えているはずなので)耐えられないものではあるまい」という楽観を抱いて、わたしはやっと生きているということである。信仰は切実なものだ。そしてそのことによって信仰はひとつの武器となり得るのである。

 ラプラスの悪魔が見わたす世界では、あらかじめ決まっていることをすべての事象が淡々と消化していることだろう。能力の有無を論じるのは意味がない。決まっている以上は遂行しないことができないため能力が問題になることがないからである。絶対にできないように思えても決まっていることであれば逆に失敗することができないのだ。当然その反対も同じことがいえる。そのためプレッシャーを感じたり失敗に憔悴したりという自分を苦しめるすべての体内反応は結果には何ら関係がないのだ。成功するときはどんなに捨て鉢でも成功し、失敗するときはどんなに確信していようとも失敗する。しかもそれを一段上に立って眺めると成功でも失敗でもなく単に決まっていることを遂行したにすぎない。振り回されるだけ損である(決定論が正しいのならもちろんその体内反応も決まっていることであり、こうやってそれらを克服しようとしてこの文章を記述することでさえとうに決まっていることではあるが、主観的には知ったことではない。現実世界ではコンピュータウイルスでしかない山村貞子はループ界では呪いのビデオを通じて人々を恐怖に陥れているのだ。それにラクになれるのなら矛盾でさえも味方につけるべきである。*1無矛盾も矛盾もそれ自体はあくまでも等価値だ)。

 すべてがあらかじめ決まっているのだとしてもそうではないのだとしても、次の瞬間になにが起こるのかわたしは知らない。諦めに似た祈りを秘めて一秒ずつ進むだけしかできないのである。

*1:以前書いたように錯覚はすでにぼくの味方である