ぼくの俳句

 ぼくが加藤郁乎から第一印象的に受け取ったものは「日本語を内側から拡張している」感覚である。

 外側から拡張するならば、比較にならないくらい容易だ。appleをアップルにしただけで完成なのだ。appleを日本語とは言わないが、アップルは日本語である。外国語の響きを日本語向けに単純化するだけで既にある日本語(この場合は「林檎」)とはニュアンスの違った日本語が発生する。これはもう明治時代からの伝統のようなもので、カタカナを介して外から日本語を拡張していく手法は、現代では日本語を普通に操れる人間であればすでにほとんど誰にでも可能になっている。

 それに比べて内側からの拡張にはほとんど眼を向けられなかったようだ。そんな中、加藤郁乎ただ一人がそれに挑戦し始めた。その孤独感や孤高感がカリスマじみていて、感化されやすいぼくの日本語まであっという間に燃やしてしまった。

 今やっているのはその灰を片付ける作業である。そのために非具象俳句という加藤郁乎のモノマネをするつもりだったのだけれど、すぐに方向転換をしてしまった。発見してしまったのだ。意味をなすための前提を抜き去った時の奇妙な日本語が新鮮に見えるということを。

 そこで見える新鮮さは日本語を内側から拡張している証拠だと信じてストレッチのような感覚でやっている。言語感覚の自由度を増幅させるような気がするのだ。