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未貴族の決めごと

 貴族になるためにニーチェを読んでいる。ここでいう貴族というのは家系だの血統だのということではもちろん無く、精神性に限っての話である。未貴族である現状で余計なものは不要なので客観性も考慮しない。ぼくが貴族を実感できればひとまず成功だ。

 まずは貴族の精神性というのが何を指しているかをハッキリさせておかなければなるまい。簡単に言ってしまうと「自分の価値観のみに従って生きる」ということだ。「超人」ともしかしたら同一かもしれないが、今読んでいる「道徳の系譜」には出てきていないため、そのニュアンスを知らない現時点では使用しない。単純に言葉として「超人」よりも「貴族」と言った方が日本語的に見目良いとも思う。

「どうだっていいのだけれど」。これがぼくの病である。何かをやろうとする時、何かを宣言する時、必ずこの言葉が頭に浮かんでくる。その瞬間やることすべてが無意味化する。それだけならまだ良かった。元々無意味な行為に意味を塗りたくっていただけだったのだから。だがそれだけの話ではなかった。自分のやることを無意味化してしまうということは、自分の中に価値体系を組み立てられないということであり、当たり前に価値観を所持している他者に従うということだった。(「何食べたい?」「何でもいいよ」という会話を想起すると理解しやすいだろう。この場合どちらも貴族ではない。)

 今年の二月、ぼくはそれをやめることにした。何があった訳でもないけれど、ぼくが好きな創作物、好きな人物、感動するストーリーは、すべて貴族の精神性を内包していることに気づいたことがきっかけとしては大きい。*1

 慢性的な生きづらさはずっとあったので、反発するための土壌は整っていたのかもしれない。単純に生きづらいよりは生きやすい方が良いし、生きやすさの大きな要素である希望はゴールに向かって進んでいる時に見えるものであって、東西南北上下左右どれも等価で無意味ならゴールなど設定できず、動かないことが最上となり希望はどこにも見えない。価値観が貧弱であるということはそういうことなのだ(「生きやすい」に価値を発見したということがぼくにとってはひとつの大きな前進だった)。

 ニーチェは晩年発狂してしまったらしいが、それを根拠にその思想を誤謬だとするにはあまりに不確定要素が多すぎるように思う。まずサンプルがニーチェ一人だけであること。そしてニーチェが他のことを全く考えなかったのかと言えばそんなことは無いだろう。仮にずっと同じことを考えていたとしたらどんな内容だろうと発狂してしまうだろう。それに時代が違えば発狂せずに済んだかもしれない。発狂の原因を思想だけに求めるのは性急だ。

 とはいえ、ぼくがニーチェの思想に忠実になる必要は別に無くて、ぼくの欲しいものだけをそこから盗み出せればと思っている。ニーチェの信者ではなく(ニーチェ信者などという存在はそれ自体がニーチェ思想と矛盾している)、ニーチェを見てニーチェとは違う自分を育てようということである。ニーチェに限らず思想なんてそういうものだろう。ショーペンハウアーの思想が正しいようだといったところで、ショーペンハウアー以外にそれを適用するならその人用に形を整える必要が出てくるだろうと思うのだ。同一の思想を異なる二人に与え得たとしてもすぐに別々の思想になるだろう。

 そんなわけでぼくは貴族になろうと思う。

*1:例えばジョジョが面白いのは、敵も味方も大抵貴族的精神性を備えており(敵キャラには貴族とは言い難い下衆も多いが彼らでさえ自分自身固有の強固な価値観を持っていることが多い)、ジョースターの血統が受け継いできた精神性とぶつかることでドラマが生じるからだと考える。

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