趣味は遺書を書くことです

 貴族になることを決心したので当面自殺する予定はないのだけれど、当然のことながら死なない予定もない。単に趣味のひとつということもあって遺書について考えない日はここしばらくなかったのだけれど、やっと最高にカッコいい文面が分かった。

 そこに至るまでの経緯をまず記しておきたい。

 「父上母上そしてみなさんありがとう」式の遺書は、現代においてはまるで嘘くさい。もちろん時代遅れと言いたいわけではない。お国のためにと散っていった戦時中の彼らの精神性を持ちうるなら現代であっても釣り合うと思うのだが、いかんせん今の時代の人間には持ちえないように感じてしまうのだ。それにぼく個人の話をすると少なくとも「父上母上」にありがとうという気持ちは微塵もない。皮肉にしかなりえないのだ。かといって「みなさん」に焦点を当てたところで、未練がましさが強く残るだけだろうと思う(「みなさん」に対する感謝の気持ちはすごくある。というより感謝できる人しか「みなさん」に含めない)。「みなさん」に対する感謝は死に向かわないだろうという嘘くささもある。感覚として感謝と死がなじまないのだ。自身の死に因果関係も相関関係もない「みなさん」との関係をただ奇麗に締めくくってしまおう的ニュアンスしか感じ取れない。ということで、現世に言及するのは遺書学(造語)においては初歩的なミスと言ってもいいレベルでNGなのだ。

 ではぼくは何を書き残せるのか。次に考えたのは死によって現世を抜け出す自分自身に言及することだ。そもそも遺書は奴隷にも残し得た最大の自由なのであって、そこに遠慮を持ち込むのは良識とは呼べない。病的な臆病でなければ怠慢である。自分について書かないでどうするのだ。

 それで自己言及型の遺書を試行錯誤してみたがどれも長々しいばかりでしっくり来ない。遺書に書いてなんかいないで今すぐ誰かに伝えたら良いだろうというようなことしか出てこないのだ。どうしてそうなってしまうのか。それがわかったことが決め手だった。

 どうもぼくは死に背中を向けて現世を眺める視点で遺書を綴っていたようだ。臨場感が必要だった。遺書なのだから死に際にしか残せない文章でなくては意味がない。精神的体験として死に臨むということ、あるいは死の向こう側を覗くということこそ遺書に必要な手続きであった。死の間際に現世を振返るのは現時点のぼくが一年前を振り返るのと何ら変わらないのだ。

 そして発見した最高の遺書は結果的にたったの一文になった。だがそれ以上の遺書を想像できない。自分の限界に到達した実感があって清々しい。短いからといって拍子抜けしないでほしい。死んだ人間が残した最後の文章だと思って読んでもらいたい。ぼくはまだ生きているがやがて死ぬ。それまでに新たに遺書を書いていなければ正真正銘これがぼくの遺書になるのだ。

 それではお待ちかね、最高の遺書を発表しよう。以下の文章だ。

「天国に行く方法がわかった。」