自由の証明

 すべては運命によって決まっているがゆえにぼくは未来を知らない。ぼくが作る未来ではないからだ。そして運命はぼくの意思を一切反映しない。だからぼくは何も選ぶことができない。だが、その選択の余地のなさがぼくの自由なのだ。

 それを感じるのが俳句だ。俳句は「制限こそが自由の入口である」と教えてくれる。これはぼくがはじめて気づいたというわけでなく、句作入門のような本でずいぶん前から言われていることだと思う(想像なので具体的な書名は挙げられません)。

 制限がない方が自由だろうと思いがちだけど、それは自由ではない。混沌である。これは言葉遊びだろうか? そうではない。自由を混沌と区別する人がいままで現れなかっただけだ。

例文 大学生が自由で自堕落な生活を送ってしまう。

 これは自由などではなくて混沌である。もちろん自堕落を敢えて志向した場合には自由と呼ぶべきだが、ここでの注意点として、自堕落を志向することにも制限があるということだ。自堕落でないことを許容していないのだから、何らかの危機感を受けて自堕落を辞めようと思っても辞めてはいけないのである。「それでもぼくは自堕落に生きるのだ」と言えるのでなければそれは自由と呼べる代物ではなかったということだ。

 でもそれって自由なの? と思うだろうか。自由とは一体どんなイメージだったろうか。けだし「何でも選べる、何でもできる、何でも許される」という弛緩しきった状態だろう。

 その弛緩しきった状態で実際のところ、なにが選べるだろうか。「何でも選べる」ではなくて「何にも選べない」ではないのか。「その二つは表裏一体の同じことだ」という人があるがそうではない。この状態にあっては、なにか一つを選ぶための根拠がどこにも見つからないだけでなく、選択することの根拠までが見事消え去っているのである。弛緩を続行するためにむしろ選択をしない方向を向いている。ひとたび選んでしまったらそれによって次の選択が用意されてしまい、それは制限に他ならない。それを無視することも出来なくはないが、無視するためには何らかの志向がなくてはならない。たとえば「弛緩を続行したい」という志向だ。こうなるといずれにしろ当初の「弛緩」の状態ではなくなっている。「何でも選べる」状態ではなくなってしまう。だからその自由のイメージを現実化した場合、何も選ばずに漂いながら「何でも選べる」気分だけを味わうことになる。

 何の強制力もない代わりにあらゆる選択肢=区別が消え去っているのだから、この弛緩状態は混沌と呼べる。混沌は何でもできるのではなく何にもできないのだ。

 もちろん、冒頭の「選択の余地のなさがぼくの自由なのだ」は運命を前提としているため、混沌における「何にも選べない」とは、意味合いが異なる。前者の選択の余地のなさは運命上の見方であって、運命下にある選択者から見ればすべてを選べるのだ。対して後者は選択者の視点において何にも選べない。

 運命で定められていることによって、どれを選んでも正解だという安心感につながる。五七五*1を守っていればいくら奇抜でも俳句といえるのと同じだ。

 寺山修司が「自由だ、助けてくれ」と言ったのは、自由ではなくこの混沌のことだったのではないだろうか。とすれば自由と混沌とを今更ながらに区別することにも何らかの意味は持たせられる。つまり自由を欲する人が間違って混沌に向かわないようにという警告的役割を果たすことが出来るかもしれない。*2

 制限があるのに自由だというのが納得いかないという向きには、ルドルフ・シュタイナーのこの言葉を贈ろう。

人間は自分に従う限り自由なのであり、自分を従わせる限り不自由なのである。 (『自由の哲学』/ルドルフ・シュタイナー/高橋巖訳/筑摩書房/2002.7.10)

 「自分を従わせる」が、混沌に身を任すことであり、「自分に従う」が、五七五であり、運命であり、ここでいう制限である。

 自分の欲すものを欲すままに手に入れる。これはまさに自由だが、その自由のために制限は自ずから立ち上がってきている。自由であるためには「欲すものを手に入れなくてはならない」のだ。自由でいられる間は自らを鼓舞する味方となり、自由が保てなくなってくるとあっさり敵として立ちはだかる。制限とはそういうものである。

 だから運命という制限を好ましく感じている瞬間、まさにそう感じられることによって、その人が自由であることが証明されるのだ。

*1:単にぼくが詳しくないということもあるが俳句といえば五七五である。季語や切れ字の用法などを無視しているわけではない。

*2:混沌を欲する人が混沌に向かうのは何ら間違ったことではない。だが、ぼくはこんな苦しいことからは逃げたいのだ。少なくとも前述の寺山修司のレトリックを借りたいくらいには。