世界の終わり?

 世界が終わらないかなって考える。明日の天気を気にするくらいの気安さで。

 いや、実はもうとっくに終わっていて、ぼくが追いついていないだけなのは知っている。過去と未来は現在と同時に存在しているのだ。縦と横と高さが同時に存在しているように。

 だけどだからこそ気安く考えることができる。すでにそれは決定していて、ぼくがこの先何をしようがそれはすでに織り込み済み(あるいは全くの無関係)で、世界が終わることに何の影響も与えないことを確信しているからだ。明日の天気が今日のディナーの内容で変わったりはしない。ぼくは知っているのだ。

 今日はプラネタリウムに行ってきた。天文学の知識など持ち合わせていない。学校で何を学んだかすら思い出せないレベルだ。広い夜空では夏の大三角でさえ見つけられる自信はないがプラネタリウムなら安心だ。矢印が示してくれる。だけどいつか誰もいない見晴らしの良い山の上で寝転んで夜空を見てみたい。その時には想像の翼を拡げて地球を飛び立つのだ。

「あれがアンドロメダ銀河で40億年後にぼくたちの銀河系に衝突するんだ」なんて思ってうっとりできるかもしれない。そのせいで世界が終焉を迎えるならこんなドラマチックでロマンチックなすてきに美しい話もない。でもたぶんこれは世界の終わりとはあまり関係のない話だろう。宇宙はあくまで世界の構成要素でしかなくて、しかも宇宙全体を考えたら銀河の衝突など些細なことなのだから、世界の終わりとはやっぱり無関係な気がする。

 結局のところ、世界の終わりは誰かがスイッチを切るような瞬間的なものなのだろう、などと想像している。それもすてきに美しい話ではある。たとえ明日世界が終わったとしてもぼくがそれを実際に見届けることなどできないのだから(世界の内側の存在が世界が終わりきる瞬間を観測することはまずできないだろう)、どこまでもフィクショナルな出来事として処理されるしかないのだ。それならやっぱり世界の終わりそのものがロマンチックなお話なのだと思う。