しばし休憩を。

 なんか疲れてきた。というのも毎日3時4時くらいまで起きてて朝は8時過ぎに家を出るみたいなことを先週一週間やってたから当たり前と言えば当たり前なんだけど、何でそんなことをやっていたかというと運命と一体化するということの実践ですね。視野を極端に狭くするというかエゴ的な部分での思考をゼロにしようとしているわけです。このエゴとかいうやつは世界に善悪を持ち込んでいちいち判断しようとするという悪癖があって、まあこれ自体は恐怖から来る習慣なのだとは思うけれど、神経症的なものは大体これの行き過ぎが原因だと思うんです。強迫の患者が独自の儀式を正確にこなさないといつまででも手を洗ってるとかいうのもそうだし、不安神経障害がいわれのない不安を覚えるのもエゴが「これでいいのだろうか?」と判断を過剰に要求し始めた結果なわけです。まあ他の精神病でも似たようなものですよね。その過剰な善悪観を認知の歪みとか呼んで、それを矯正するための認知療法がある程度成功しているわけです。というかぼく自身が躁鬱病ですが認知療法的な考え方をするようにしたら大分改善されました。明らかに一昨年より去年の方が楽だし、去年より今年の方が楽です。

 仏教とかでよく「悟り」だとかっていいますよね。じゃあその反対はっていうと「迷い」です。気づいてる人はもうこれだけで腑に落ちるんですよね。というのも迷うのは判断しようとするからです。判断しようとするのは自信がないからです。覚悟がないからです。ヘッセが「真実の反対も真実だ」みたいなことを言ってましたが、まあそういうことですよね。簡単に言えば、何を選ぼうが真実なわけで重要なのは何を選ぶかじゃなくて選んだ結果何が起きるとしても迷わないことです。人々がこぞって求めるような正しい悟りの作法なんかはどこにもないわけです。自分が常に正しいっていうのを保持し続けられればもうそれで完成です。で、人間は間違う生きものだ常に正しいことはあり得ないとか言い始める凡俗がまあ出てきますよね。それこそおかしな話で、そもそもありもしない善悪を措定してるだけなんだから間違いなんかあり得ないんですよ。善悪を捨てろってのはニーチェも言ってるしウパニシャッドにも載ってる別に珍しくもない話ですが、まあ難しいですよね。もはや呪いです。善悪の呪い。これがなかなか捨て切れません。

 はじめに書いた運命と一体化するというのはこのことです。善悪の完全な放棄です。あえて量子論にのめり込んでいるのは余計なものを視野に入れないことでエゴによる判断をなくすという実験ですね。運命であれば間違いはないでしょう。この「間違いがない」というのとさっきの「人間は間違う生きもの」というのを比べると、間違いのレベルが異なっていることがわかります。前者の間違いのない選択が後者のレベルでは間違いと呼ばれることが多々あります。というか間違いと言われていることのすべてがこれです。まあそんなものは無視でいいですよね。運命になれば常に欲するものが目の前に続いているわけです。運命ですからやったことが正しいことです。それを確信して自分が欲することを一切の抵抗無くやれる状態が要するに自由の状態ですよね。

 というのを前提にしてしばらくやっていたけどもうここらで頭がいっぱいになってきている。もう入っていかない気がしている。量子論自体は面白くてまだまだやめる気はない。というかその先にある量子宇宙論とひも理論がさらに魅力的なのでやめたくない。というわけであくまで一時的に休憩をとることにした。いまはそんな感じです。