2001年の7月22日は日曜日でした。

 躁の終わりにはいつも思い出すことがある。二階堂奥歯のある日の日記の内容だ。*1

 あ、終わったんだ。って一瞬思ってしまったらそこからはもうごまかせなくなる。全身を覆い尽くしてしまう。マリオはもう無敵じゃないし、ユミちゃんは発作に見舞われる。ぼくはなんにもできない。ひたすら退屈な世界があるだけだ。

 労働がいのちをすごく無駄遣いしているように感じる。使い道を自分で決めて、そのためにすべてを注ぎこめなくては生きてたってしょうがないでしょ。生きてたってしょうがないんだよ。だから人生を台無しにして物語になろうとしている。

 ひとつの目的のためだけに生きるっていうただそれだけなんだけどなあ。それは目的以外をすべて犠牲にしてもよいという姿勢で生きることに等しいということは理解しているし、むしろ物語性を実感するためなら自分から何もかもを台無しにしてやりたいとさえ思っているのに、なにかを犠牲にするだけの価値を任意の目的に付与する力がまだ備わっていないのだ。どうしたらいい。正しさとか幸せとかそんなものは要らないんだよ。ことによったら自由でさえいらないのかもしれない。目的だけ自由に設定できるのであればあとの不自由はすべて物語の中だ。弟子たちにさえ行動を阻まれていた不自由のなかでも自説を唱え続けたフーリエの物語性には涙が出てくる。彼は世界を救おうとしていた。本気だった。本気で地上にユートピアをつくりだそうとしていた。ああいうことがやりたいのだ。