読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

過去という悪霊

 過ぎたことをくよくよといつまでも悩んでしまうことがある。しかし悩みたくて悩んでいるわけではない。さっき送ったメールの返事がなかなか来ないからって「なにか気に障るようなことを書いてしまったんじゃ」なんて考えてもしょうがないことくらいわかっているのだ。心当たりのある人は時間を疑おう。教科書は『時は流れず』*1だ。ここには過去は制作された物語であるということが書いてある。

過去とは何か?

 昨日の夕飯を思い出しても、味はしないだろう。これは想起という体験が知覚ではないことを示している。「過去自体」はどこにも保存されていないし、もちろんそれを再生することもできない。想起している最中は想起内容に気をとられてうっかり認識を誤ってしまいがちだが、落ち着いて考えてみると、想起とは「どこかに実在する過去にアクセスして再現すること」ではなく「現在進行形で考える行為」だということがわかる。昨日の夕飯を視覚イメージとして思い出すことはできるだろう。しかし当然ながら視覚で知覚しているわけではない。「昨日の夜にカレーを食べた」という思考内容に付与する図解でしかない。つまり過去とは想起する際に思考的に現れる虚像なのである。

過去の制作

 虚像なのである。と言い切ったところで昨日カレーを食べた人にとって昨日カレーを食べたことは事実である。彼にとってまぎれもなく真実である。しかしそれはあくまで彼ひとりだけの真実であって公共的な真実ではない。「昨日は一緒にピザ食べたじゃん」と友人が彼に言ったとしたら第三者的にはそれだけで疑わしくなってくる。

 彼が確かにカレーを食べたということを証明するためには、証拠が必要だ。鍋に残りのカレーがまだあるだとか、食材を購入した際のスーパーのレシートだとか、そういったものの力を借りて彼は証明することができるだろう。さて、この際の証明とは何を意味するのだろうか。それは集まった証拠を基に過去の物語を「制作した」ということである。仮に彼が本当にピザは食べていないと(思っていると)しても、友人が証拠を集めて破綻のない過去物語を制作できるのならば、それは確かな過去として認められるのである。

 でも本当はカレーを食べたんでしょ? と疑う人は下記の引用を読んでください。

ある殺人者が自分の犯行を想起するときに、その現場の部屋のもようや 自分の恐れに揺れた気持ち、そして犠牲者の驚きの声や苦悶に歪んだ顔とい った知覚的情景がまざまざと浮かぶだろうし、それは忘れようとしても抑え がたい強迫力で迫ってくるだろう。しかしそれは知覚的図解にすぎないので ある。決して殺人の再現や二番煎じではない。知覚風景と違って、その情景 は細部を見つめたり声のふるえの細部に耳をそばだてることができないこと は、夢の想起と全く同様なのである。その部屋には全体が青緑色にみえるシ ャガールの複製があったことや、犠牲者の反抗の声に奇妙な抑揚があったこ と、これらは言語的にのみ想起されるのであって、知覚的図解をあらためて 注視することでわかるのではない。この図解の特徴は、それが思考(思い) の補助であって淡く薄れかけた知覚風景などではないゆえに、あらためて注 意したり注視したりすることはできないからである。このことは自分の夢想 起体験を反省してみれば誰にも納得がゆくことである。
(時は流れず/大森荘蔵青土社/1996.9.10)
 過去は、思い出す際に、証明する際に、言及される際に、その都度制作されていくのである。

利用方法

 これが真実です。とは言いません。大森荘蔵が本書で「過去自体」を否定する際に、カントの「物自体」を引き合いに出していましたが、ぼくはここで「真実自体」を否定します。「真実自体」などというものは何の意味も持ちません。生物は利用価値があるものを仮に真実だとして生きるだけです。ということは、上に記した内容も利用できなくては意味がない。少なくとも過去のふりをして取り憑く悪霊に塩を撒くために利用することはできると思います。だって過去はまだ制作されていないのだから。

おまけ

 この本は過去論だけじゃなくて、現在の異質性、「時の流れ」という錯誤、「主観 - 客観」の対置と意識の廃棄等おもしろい内容を含んでいます。ややこしいテーマを扱っている割に読みやすいので興味が出てきた人は読んでみるといいです。

*1:

時は流れず

時は流れず

 

 

広告を非表示にする