汝の泥棒を愛せよ

 船っていいなあと思う。水の上をぷかぷか揺れている姿のあどけなさ。近くに寄ってこられたらちょっと遠慮するけど、沖の方で小さくなっている姿はいかにも牧歌的で平和そのもの。
 船の上にいるニワトリはもっといいなあと思う。いま自分は途方もない海の上にいるんだということを知らないで平気そうな顔をしている。人間たちが当たり前だと思っていることを、こいつは何も気にしない。だから何を目撃しても動じない。何を聞かれても聞こえないふりをしてやり過ごす。理解していないだけ、という意見はごもっともなのだが、ニワトリに意見をうかがう人間の方もなかなかのものだ。
 そんなわけでニワトリに話しかける泥棒っていいなあと思う。「おまえ見てただろう」なんて問い詰めて、もしニワトリが人間の言葉でしゃべりだしたらどうするつもりなのか。


 この船上に漂うどこか滑稽なフィクション性は愛すべきものだと思うのだけど、現実感をもった時点でそれもすべて台なしとなる。よいと思えるのは遠く離れているときだけだ。遠くの出来事は目をそらすだけでまるごと全部なかったことにできる。要するに大事なのは距離感なのだ。二千年の昔から「汝の隣人を愛せよ」などという言葉が残っているのは、それが非常に難しいことだからだ。近くの他人より遠くの泥棒である。まずは泥棒を愛せよ。汝の泥棒を愛せよ。

 仮にぼくがこの船に乗ったとしたら、船酔いはするわ屈強な海の男がむさ苦しいわで、どこか涼しい隅の方でぐったり横たわっていることだろう。そのうちニワトリも床と人間との区別がつかなくなってぼくの顔を踏みつけて渡るだろう。泥棒はもともとニワトリと人間の区別がついていないからぼくをニワトリだと思って話しかけるだろう。「半分やるから見たことは黙っててくれ」と言われたところでしゃべる気力すらない。こんなことは考えるだけで嫌だ。

 しかしぼくは彼らにとって完全に上位世界の存在である。彼らが存在する世界まるごとぼくがたったいま作ったのである。だから泥棒がなぜわざわざ逃げ出すことのできない船の上で盗みを働いたのか、その理由だってぼくは知っている。実のところ彼は船上で唯一のぼくの友人なのであって、ぐったりしているぼくのためにだれかの荷物から酔い止めの薬を盗み出してきたのであって、「半分やるから」などという言葉がじつは照れ隠しだったなんてことでさえぼくははじめから知っていたのだ。それでもぼくはあくまで上位世界の存在なのであって、話が終わったら帰らなくてはならない。ああ、泥棒から贈られる薬はさよならみたいな味がしますね。