苦悩はすべて猫に弟子入りせよ

 我輩は猫の弟子である。名前はまだ捨てきれてない。猫にとって「ない」のはなにも名前だけではない。過去も未来もない。国家も道徳もない。宗教も戦争もない。自分自身の価値などを考えたこともない。「社会の役に立たなければ」だの「誰かに認められなければ」だのそんな観点がまずあり得ない。したがって自己について悩むこともまたない。労働もない。生活が立ちいかなくなるということもない。その上わざわざ家賃などを払って狭い家に住むなどということに至ってはまったく理解ができない。金など払わなくとも、そこらじゅう世界のすべてが自分の家であり、自分の遊び場であり、自分の墓場である。金を払うべき理由はどこにもない。払うべき相手も思いつかない。どこの恥知らずが当たり前のような顔をして金を受け取っているのだろう。だいたい自分がどこで生きようがどこで死のうが知ったことではない。ウロウロして出くわした相手が金持ちだろうが浮浪者だろうがどうでもよい。餌をくれるなら寄っていくだけであって、それがロボットでも化け物でも構わない。そもそも出会った相手を人間だのゴミ箱だのと区別することもない。すべては自分とそれ以外で事足りる。自分以外の一切が無である。生は享楽するものである。マックス・シュティルナーが「私の事柄を、無の上に、私はすえた」と言っている。辻潤は「私は自分の生命のままにただ生きる」と言っている。これらはまさに猫の生きざまである。社会という亡霊、他者という地獄に取り憑かれた人間はすべて猫に弟子入りすべきである。神もなく主人もない野良猫的ニヒリズムに陶酔すべきである。ぼくはぼく自身になりたい。