関係性について

 これほどまでに「死にたい」という言葉がありふれている世の中でまだ「おまえはひとりで生きてるとでも思っているのか」などとのたまう人間があるが、ひとりで生きていると思っていない輩が社会を窮屈にしている気がするのはなにもぼくだけではあるまい。人がひとりで生きているのは当たり前のことである。見てわからないのか。

「じゃあおまえは何人で生きてるつもりになっているんだ」などと言い返そうものなら「屁理屈を言うな」などという理不尽の定石をロールプレイされてしまう恐れが出てくるため避けるが、たとえば死にたい人の代わりに生きることのできるような人間などはいるわけがないのだし、仮に「ひとりで生きていない」彼がすべての人から無視されたとして、彼は自分が消えてなくなるとでも思っているのだろうか? それでこの手の悪霊が成仏してくれるのなら話が早いのだが、そういう風にはできていない。というかむしろその「自分はたったひとりである」という自覚から偶像でない生の自由が発芽するのだ。

 人は人に支えられて云々などという道徳の教科書あたりからくすねてきたような物言いは「人はひとりで生きているのだ」という覆せない前提の後に出てくる無用な後日談である。必要であればその都度ひとりで生きている人間が自分の力に応じて他者の支えを獲得していくのである。<支える - 支えられる>という従属関係が発生するのなら、意識的にせよ無意識的にせよそうならざるをえない。支えられる側は、金を払う、親しくする、空気を読むなどその時々における種々の条件に応じてしかその支えは得られないのだから「支えられて生きている」ということが何かしらの前提にくることはない。支えられているからといって振る舞いを制限されるいわれはないのだ。条件に沿う気がない場合はその支えを放棄するだけである。

 ただし<支える-支えられる>関係から解放された関係性はないわけじゃない。

 それは、年収や容姿や学歴など見つけようとすれば無限に見つかるような余計な自意識に汚されていないのらねこ的少年少女の、純粋に楽しさだけに導かれた麗しき友人関係のような関係性*1である。ゆくゆくは花開くであろうその関係性を包含した種子を含めてもいい。

 彼らにおいては自分が楽しみたいがために相互に相手を利用しあうのである。AはBといると楽しいからBと遊ぶのであり、Bもまた同様である。AはBを気遣って誘うのではなく、Bは断れないから誘いを受けるのではない。AもBも自分のために誘い、自分のために応じるのである。そこには<支える - 支えられる>という従属的関係の欠片すら見つけることができない。*2

 ぼくはそういう環境に遊んでいたいし、その麗しき関係性を見た後であらためて目を戻すと懐中電灯に照らされた不審者のように異物感が鮮明になるすべての従属的な関係性から独立していたい。

*1:スローガン的に記述するなら「だれにも従わず、だれも従わせず、序列を導入しようとしない」関係性ということになる。

*2:こういった関係性はマックス・シュティルナーのいう連合に当たる。