暴露、あるいは欲望の囚人による毒矢

 以下はそにっくなーす氏の『暴露』という日記文学に触れて瞬間的に自動筆記した文章である。昨年11月の文学フリマにて購入し読み終わる前に突発的に出来上がったものであったため読み終えた後に何かしら客観的なわかりやすさを施す予定だったのだが、氏の輝かしい無垢性に敬意を表してあえてそのまま公開することにした。

 彼女がいみじくも元彼から引き出した「欲望の囚人」という評価にふさわしい生理的受難、白衣の内的原罪がそにっくなーす氏の手によって惜しげなく公開されたこと、これはひとつの事件だった。少なくともぼくの中ではなにかしら解決を要する体験として記憶されることになるピュアネスの毒矢であった。

 欲望は抑制されてはじめて欲望となる。欲望が欲望になる瞬間とは、自分が欲望から離れたときだ。それは実際には欲望そのものであった自分自身から遠ざかってしまったときなのだ。他者の目を借りて目撃した自分自身の姿は、それまでと同じようには見れなくなっている。そして欲望に手錠をかけるのだ。自覚された瞬間から欲望は異物として世界に存在してしまう。欲望が自己である限り、遠ざかっていく自意識は疎外感に悩まされるだろう。生の中心点はあくまでも欲望なのだ。

 彼女の特異性はここにおいて理解される。一見、彼女もそのように自己から遠ざかっているように見える。しかし彼女は欲望を俯瞰しない。欲望を異物として手放すことがない。

もっともっとしっかりものになりたいけれど、このゆらぎ具合 わけわかんなさと 不安定さが すこしでも キミの目を惹くのならば わたし このままでも いいかなーって 思っているよ

 この軽やかな詩的情緒にそれは現れている。おそらく何の気なしに書かれたであろうこの文章に、ぼくは生の脈動を感じ取った。自分自身から遠ざかるように見えた彼女の向かう先は欲望(つまり無垢なる生)の中心であった。そこから発射されることばは日常の喜怒哀楽を鮮やかに瀉血していて思わず目を背けてしまいそうになるほどだ。

 おそらく合理性という悪夢に向けて拳銃を祈るしかない日常に鮮やかな生を虐待され続けている2120年頃の好事家はこの白衣の黒ナースが100年前の日々をまさに音速で駆け抜ける様をまざまざと夢想することを禁じ得ないであろう。そしてそれは生そのものを禁じられた遊びとして義務の鳥かごに自ら閉じこもる人々の人間自身、つまり好奇心と生に衝撃的なレゾンデートルを発熱させ、歓喜の咆哮を促すことだろう。

 

 語られた固有名詞がいちいち魅力的に見えてしまうような語り手がいる。なぜ魅力的なのかといえば、欲望のばねで飛ばした感情の矢が不純物の追いつけないスピードでこちらに突き刺さるからだ。

 その矢をそにっくなーす氏もたしかに放っていたのだった。