カイエ

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 自分とそれ以外(以下、世界と表記する)は関心の糸だけで結ばれている。すべてに無関心になると生きている実感はもはや沸かない。ひたすら無為な時間を過ごす以外に為すすべはなく、底なしの虚無感のほか何ものも見いだすことができない。

 関心の強度で生の充実度は測れる。関心が強くなればなるほどそれに向かう行動が起こしやすくなる。常に関心の度合いに応じて行動は選択されているように思う。そしてその結果の感じ方にも影響があると思う。関心が強ければもっと好ましい結果を得るための方法を探るだろうし、関心が弱ければ辞めてしまうかもしれない。関心は主観性の強弱に相関があるように感じる。関心が強ければ強いほどその対象に没入する度合いも強くなりそれ以外のものは彼の意識から遠ざかっていくことだろう。逆に関心が弱ければその度合いに応じて他のものを見ようとするはずだ。関心が弱いときに目に飛び込んでくる客観性のノイズはさらに関心を弱める方向に作用する。というのも主観でないものはすべて客観性の色に染められてしまっているからだ。

 客観性とはなにか。ことばでの理解だ。これはあんな感じらしいよ、という話を鵜呑みにすることだ。「あんな感じ」と自分では思ったことがないにもかかわらずそれを信じ込んで固定化してしまうことで客観性の毒は回り始める。「あんな感じ」と感じられないことがまるで不正解かのように思われ始める。

 客観性をできる限り排除することで主観性は守られ関心は強固になる。世界と自我との結びつきも強固になる。客観性が著しく弱まり主観性が甚だしくなってくると、それは主人公性といったほうがしっくりくる。それほど世界との一体感が生まれる。

 

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 比較とは特殊性の極致である自己を貶める行為だ。

 

 世界とは自分が見る景色であり五感やそれ以外で感じる刺激から浮かび上がる印象のことである。それゆえ世界はひとりにひとつずつ配達された差出人不明の手紙なのである。

 

Գ

 どこか遠い星で醜悪な化け物の種族があたしは美しいだの醜いだのと勝ちほこったりしょげかえったりしている姿を想像する。その姿はやたら滑稽に思えるのだが、しかしそれは、ことによったらこの地球のことなのではないか? いやたしかにそうなのである。われわれはたまたまここに生まれ育ったという無意識の特殊性のせいでその感性が麻痺してしまっていたのである。


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 そうするしかできない人間に、あれが正しいだのそれは間違いだの言うことにどれほどの意味があるだろうか。

 

 誤りとは客観性からにじみでるありもしない正解までの距離感覚なのだから主観性を最高度に高めることで無謬性も高まっていき、それが自身の主人公性へとつながるのだ。

 

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 死んでもいいから遊び続けろと全身で表現しているのらねこはそうある限り自分自身の主人なのである。