「享楽の意義」と「自殺の伝染病」と

たしかアルツィバーシェフだと思った、人間が他人の自殺するのを止めることは僭越だという意味のことをいった。つまり彼の考えではこの世に生きている人間は、少なくとも何等かの意味でこの世を享楽し得ることの出来る人々である、だからそれができない人間が自殺するのはあたり前で、それを他人が止めだてする必要はないというのである。ちょっと聞くと冷酷だが、僕なぞには如何にも真理の如くきこえる言葉である。

上記辻潤の「享楽の意義*1」からの引用だが、辻が言ってるのはおそらくアルツィバーシェフの「自殺の伝染病*2」で間違いないと思う。

アルツィバーシェフは「自殺の伝染病」で、若い女に「何のために生きなければならないのか、どうして死んではいけないのか」と言われて

人生の事実そのものの中に喜びを見出している者のみが生きるべきである、そこに何物をも見ないものは、彼等は実際寧ろ死ぬべきである

と回答したと書いている。

アルツィバーシェフも回答するにあたっていくらか逡巡したようで、他の回答ができなかった理由も書いている。要約すると次のようになる。

<私は人生の美しさを語る言葉を持っているが、彼女にはそれ以外のものが必要だった。私は文学や芸術など自分の生を充実させる術を持っているが、彼女にはそれが与えられなかった。私に残された唯一のアドバイスは、民衆の幸福のために教師になって子供達に教育を与えることだが、それは私自身従事することを欲しないが故に、それを勧めるのは偽善でしかない。そして偽善は破滅と悩みを与えるだけだ。>

確かに彼の回答は冷酷に聞こえる。それに自分がアルツィバーシェフの立場だったらかなり言いづらい回答でもある。それでも本当のところどう考えているのかといったら、ぼくはアルツィバーシェフの言っていることをたどたどしく回答することになるだろう。アルツィバーシェフのいうことはもっともだし、そりゃそうだよなあとしか思えない。

でも悲しくないか?と思う。

気がついたら親とかいう得体の知れない生き物に生活を管理されていて、学校に行け勉強をしろなどと言われ、おとなしく勉強していれば何か報われるかと思ったら、労働のための下準備でしかない。あれ、ぼくは働きたかったのか?まさか。それでも働くのが当たり前みたいな顔した両親教師その他大勢に囲まれていつの間にか「働かない」という選択肢なんかないみたいな状況になっている。「小学校の時に書かせられた将来の夢ってのはありゃ一体なんだったんだ?」などと思いつつも仕方なく就職して金を稼ぐようになりました。それで? 次は結婚して子供を作れ? もっと稼いで家を買え? それで? それでなにかあるかといったらなにもない。わけのわからない世界に引っ張り込まれて、楽しいことの一つも見つけられませんでしただからもう死ぬしかないよね、じゃあまりに悲しすぎるだろ。無理矢理にでも楽しまないと割に合わないだろ。

それでもひとつ救いなのが「もう死ぬしかないよね」ってなった時点で、それまでの価値観とか常識が完全に間違っていたのが判明することだ。まっさらの状態から吹き込まれるわけだから仕方ないのだけど、教わったことをただ鵜呑みにして正当性を検証してこなかった。教わったのは極端にいうと周りの大人の偏見だ。大人同士だったらまだ意見の違いを尊重するという視点もあるが(あやしいものだが)、子供相手だとその視点がすっぽり抜けてまるで自分の意見が唯一の正解だとでもいうような顔で子供に覚えこませてしまう。大人だとか世間だとかいうのがそもそもデタラメだった。周りの大人も世間も正解なんかは持っていないのだ。だったらそれまで持っていた旧来の価値観はぶち壊してもいいんじゃないか?自分の価値観で生きられるんじゃないか?少なくともその意志を持つことはできるはずだ。そうしなきゃもう死ぬしかないってとこまで来てるんだからもうやるしかないよね。

めちゃくちゃやって好き勝手に生きてるような人間がぼくには美しく見えるよ。

*1: 

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

 

 

*2:アルツィバーシェフ「作者の感想」所収。Amazonにもなかったので気になったら図書館か古書店でお求めください