日記2:誰自身

昨夜は唐突に現れた悪魔的頭痛に参ってしまってここ15年来唱え続けてきた「眠っていれば痛くない」という根暗高速子守唄*1式のお祓いを改めて使わせて頂いた。そんな呪文に何らかの効果があるはずもなくしばらく丸くなって唸っていたが、それまで耐え続けてきた霊的な自我がついにやられて軽度の昏睡あるいはただの健康的な睡眠に陥った。

目が覚めて頭痛は軽く消え去っていたが何となくベッドを降りる機会を逃したので仕方なくTwitterのTLを遡って無表情で笑ったり自分の人生を考えることもなくいいねをつけたりしていた。

生きてても何もすることがないので、結局は本を読むことになる。加藤郁乎の「誰自身*2」を読み始めた。「お前は救世主だ——という声を私が最初に聞いたのは、去年の夏の終りの、ある爽やかな朝のことだった。」から始まるこのエッセイは意識と無意識の交流が鮮やかに放り投げられていて非常に好きな作品ではあるが、同時にぼくには書けないということを明示されていて読み直すたびに寂しい思いもする。

当時の彼は交友関係の広い酒飲みだった。言ってしまえばこれがぼくに彼のような文章が書けない理由だ。ぼくには交友関係も酒も欠けているからだ。澁澤龍彦の嫁でありみんなの妹でもある矢川澄子と霊的にだけでなく肉体的に仲良くしてしまったことをわざわざ交友録をまとめたエッセイ集の文庫あとがきに平然と発表してしまった後で当人同士の関係がぎくしゃくして寂しくなってしまったのか人間関係の宝庫であった彼も晩年は隠居して俳句研究に専念するようになったとはいえ、それまでの著作にはしょっちゅう当時の日本文学者の名が登場して、しかもそのエピソードがいちいち面白いので、もしぼくが発狂した女だったら布を噛みしめながら泣いて悔しがったことと思う。

このエッセイだけでも、土方巽と酒を飲んでニジンスキーの話をしていたはずがなぜか「不条理とはニワトリを飼うことです」などという発言が飛び出してみたり、「牡蠣貝的な質感を増しつつあ」る稲垣足穂との一年ぶりの再会の席で、仏教徒である火星族とキリスト教徒である金星族とのあいだに交わされる戦争とその行く末についての話などをしているのだ。こんな交友関係をどうやったらつくることができるのか、羨ましさで側頭葉が痺れるあまり想像すらできない。こういった交友関係を持たないぼくが彼の真似をしようとしたところで、せいぜい「ぼくは救世主ですか?」などと最寄りのカトリック教会にお伺いを立てて精神科の病院に搬送されるのがオチだろう。

あとこれは冗談だけど、いまからぼくが何者かになれるのなら加藤郁乎か発狂した女になりたい。

*1:「根暗高速子守唄」は、蜉蝣の1stアルバム「蜉蝣」に 収録されている。

蜉蝣

蜉蝣

 

 

*2: 「誰自身」は、評論集「かれ発見せり」に収録されている。

かれ発見せり (1972年)

かれ発見せり (1972年)