殺人的傾向のある患者

2018/11/27

最近「ミルトン・エリクソン心理療法 <レジリエンス>を育てる」*1という本を少しずつ読んでいる。

今日は「殺人的傾向のある患者」のところを読んだ。質問の力についての記述が主なトピックだった。「質問する人が会話の主導権を握る」だとか書いてあった。「殺人的傾向のある患者」の話は、簡単にいうと精神科医であるエリクソンが患者に殺すぞと言われたがうまいことをやって難を逃れたという話だ。順を追って書いてみよう。

エリクソンがエレベータに乗り込むと、待ち伏せしていた患者に「いまから殺してやる」と言われる。エリクソンが「で、ここでやるの、それともあっち?」と聞くと、患者はエリクソンの指す「ここ」と「あっち」を目で追った。エリクソンはその隙に「あっちにはことの後でゆっくり座れる椅子があるなあ、もっと向こうには他の椅子もある」などと言いながらエレベータを出て行き、最終的には着いてきた患者と二人で看護師が集まる詰所に到着する。

これで一件落着というわけだが、患者がエリクソンを殺害せずに気が収まってしまったのはどういうことだろう。この患者はおそらくエリクソンを殺害したいわけではなかった。解説には「もしこの患者の基本的な行動指針が、権威をもつ重要人物に真剣に取り合ってもらうことだとしたら、彼の任務は達成されたことになる」*2と書かれている。彼が実際にエリクソンを殺害していたとして、抱えていたフラストレーションが解消されることはなく、むしろより大きなフラストレーションを抱えていたように思えてならない。

このエピソードからは相手の言い分を受け入れることの重要さが示唆されている。「いまから殺してやる」に対して「やめろ」「それはよくない」などと言ってしまうと激昂させてしまって危ない。これは特殊事例だが、コミュニケーションをしようと思うなら単になんらかの意見の相違があるという場合にも、まずは相手がそう思っているということを受け入れる必要がある。その後で対立する自分の意見を言う場面があるかもしれないが、基本はこのエリクソンの「相手の力を利用する」スタンスでいきたい。ぼくがエリクソンの本を読んでいるのは、こういう考えがぼくの中にもあるからだ。技術的には未熟だとしても、外圧で何かをさせるのではなくお互いに納得のいく結論を出したいという気持ちはずっとあった。ここでいう外圧には、強い論理で有無を言わせずに従わせるというようなことも含まれる。力で屈服させるようなやり口に人並みに嫌悪感を抱いていたというのもあるが、それ以上に未熟さを感じてしまうというのが大きい。うまく自分の気持ちを伝えられない子供が暴れているのと同じように見えてしまうのだ。それは全然コミュニケーションではない。理想的には「これがやりたい」、最低でも「これはやる必要があるよね」というところまで各自で納得しなくてはコミュニケーションではないと思う。わざわざ気を使う必要すらなくて、相手を尊重できればそれでいいはずだ。

相手の言い分がこちらを害すこととなると受け入れるのはなかなか難しいが、エリクソンは平然とそれをやっている。「相手の力を利用する」という表現はあまり気持ちのいいものではないが、エリクソンが「利用する」のは本人の成長のためなので、誤解のないようにしたい(彼は治療を患者の成長を手助けするものとして認識していた)。もっというと成長するのは成長する本人の話なので、外圧を持ち込まないようにするなら「相手の力を利用する」以外に方法がないと思う。

エリクソンの考え方はジョジョでいうと二部のジョセフのやり口に近い。信念は別として戦い方としてはジョセフが一番好きだったなあというのを思い出した。

*1:

ミルトン・エリクソン心理療法: 〈レジリエンス〉を育てる

ミルトン・エリクソン心理療法: 〈レジリエンス〉を育てる

 

*2:P98