キリンの洗濯
二日に一度
この部屋で キリンの洗濯をする
キリンは首が長いので
隠しても
ついつい窓からはみでてしまう
高階杞一詩集*1を読んだ。裏表紙の紹介文に「ユーモアとペーソスで未知なる世界へと軽やかに誘う代表作『キリンの洗濯』」という記述があるのだが、『キリンの洗濯』だけでなく、収録されている他の作品からもだいたいそういう印象を受けた。上記で引用したのはその代表作の書き出しだ。
詩は、このあと大家さんへの言い訳になる。
飼ってるんじゃなくて、つまり
やってくるんです
そして、キリンはわざわざ洗ってほしいと願い出ているらしい。
夜に
どこからか
洗ってくれろ
洗ってくれろ
と
眠りかけたぼくに
言う
キリンとはなんだったのか。安易な解釈をつけるなら、やっぱり「子供」なのだろう。一読して感じたのは、懐かしさとか牧歌的な空気だった。「ぼく」は、勝手にやってくるキリンの無邪気な要求に、不平を言わない。二日に一回きっちり洗濯をする。この「洗濯」という語も、なにかを暗示しているように見える。
最後に、窓からはみ出したキリンを職場から見て終わる。
天気のいい日は
遠く離れた職場からでもそのキリンが見える
窓から
洗いたての首を突き出して
じっと
遠い所を見ているキリンが見える
キリンは自分の子供でもあり、「ぼく」自身の子供心のようでもある。その二重性がどこからか郷愁を導いてくる。「洗濯」は、生活のなかで知らず知らずに汚れていってしまうものを再生する行為だ。手入れをしないでいると、服も心も次第にくたびれていく。「洗ってくれろ洗ってくれろ」とたびたびやってくるキリンの姿は、お行儀の良い退屈な世界でうずうずしてくる「遊びを求める気持ち」と重なって見える。どこか放置できないその気持ちが定期的にやってくるのだ。
たったそれだけの話なのだが、なんともいえない余韻が残った。深みよりも普遍性に重きを置いた作品のように思う。非日常的な描写から日常的な雰囲気をつくるのが上手だった。
*1: