減四季録

「減四季録」という名前で日記を始めました。

note.mu

noteで日記を書こうと思い立ったのが今月の初めでした。それでマガジンを作成してみたところ、公開前に審査が入るということがわかった。つまり審査が通らないと公開できないということだ。記事を更新することは問題ないようだったので、非公開のまま今日までぽつぽつ更新していた。さっきようやく審査完了の連絡が来たので、これでやっと公開できることになりました。

月に500円かかるけど、ここでしか読めないものもあります。ちゃんと読んで楽しめるようなものを書こうとしていますので、そういう面での成長記録としてもお楽しみいただけるかもしれません。ご購読いただけると嬉しいです。

 

◆追記

減四季録は2019年5月で終了しました。

バカにでもわかる暗号の時代

一般的な了解として文章は一階で読むもののようだ。二階とか三階で書かれた言葉は一階からの反省を伴った視点がないと簡単に破棄されてしまう。言葉は過去ではない。目の前に再生されてすぐに消える。だから消える前に掴まなければいけない。掴んだそれを積み重ねてやがてぼんやりと立ち現れる存在と非存在の境界線上のイマージュを楽しむことがぼくにとっての自然な作法だった。それを掴むことができなければ、何が表現されていたとしても何も表現できていないのだ。輪郭だけのオブジェから客体という亡霊へ向けた何か、生をメディアムとしない何かがただ置いてあるだけになってしまう。一階で生を忘れることを学ばされてきたダンスマカブラたちが慌ただしい。ぼくにしても二階や三階だけではなくて、もっと上の方まで各階からずらっと視線の糸が伸びて緩んで美しい緊縛のきのこのように、クイーンの白い肌を結像する意味の記念建造物を宙吊りにしてやりたいと思ってはいるのだ。意味が明瞭であるならそれは意味が無いことが不明瞭だということだろう。あなたの月はきれいですか? ぼくの月はありません。

20190123小野祐次個展「Vice Versa ‒ Les Tableaux 逆も真なり−絵画頌」

2019/1/23(水)に六本木ShugoArtsにて小野裕次の個展「Vice Versa ‒ Les Tableaux 逆も真なり−絵画頌」*1を見た。

展示されているのは、絵画を自然光の下で撮影するという手法で作られたタブローシリーズだ*2。自然光ということで、室内においては現代の人工的な光よりも弱いものなのだろう。色はもはや見えない。ここでは明度だけが、区別できる差異となって残されている。絵の暗部はほとんどすべてが埋没していて何も識別できない。では、そこからは何も受け取ることができないのだろうか。とんでもない。むしろその暗色の深みこそがこの作品群における圧倒的な迫力を担保している。単純な印象を述べるとすれば、絵画に宿らされた生命が剥き出しになっているように感じられた。絵画が表現していたはずのものは背景あるいは前提条件として姿を隠していた。何かを表現する手段としての絵画ではなく、絵画そのものの生命を小野裕次は写真に写し取ってしまった。それは忘れ去られた部屋で発見された子供のようにぼくの前に現れた。入れ替わり立ち替わり多くの人間がその前に立ちながら誰にも見つけてもらえない不可視の子供は、訪れる人間の姿を長い間じっと見つめていたに違いない。

Tableauxシリーズ ステイトメント

*1:

2018.12.12 Wed - 2019.2.2 Sat
shugoarts.com

*2:

タブローシリーズは、ルネサンスから印象派までの絵画を被写体に、美術館に注ぎ込む自然光や微かな明るさの元で、「可能な限り時間を遡り、当時の画家たちと同じ条件に身を置いて」撮影することを徹底して行っています。

Vice Versa ‒ Les Tableaux 逆も真なり−絵画頌 – ShugoArts

20181222上妻世海トークショー「制作へ/から」

2018/12/22(土)に京都で上妻世海『制作へ』刊行記念トークショーがあったので参加してきた。なぜわざわざ京都まで行く気になったのかというと、Twitterで+Mさんがインタビュアーを務めると告知していたからだ。上妻さんのことはそれまで知らなかったのだけど、+Mさんはぼくにとって信頼できる読み手なので『制作へ』にも期待していた。ぼくにとってこのイベントは+Mさんの姿を拝見するチャンスであり、上妻さんのお話も聞けるよい機会だった。結果、本もトークショーも期待以上の体験となった。

以下はそれに参加してきた記録です。

「制作へ」の内容についての解説

イベントの冒頭でお二人は本を読んできた人がどれだけいるか確認していた。どの程度深い話をするかの判断基準にしようということらしい。半数以上手が上がるのを見て、結構ハードな内容でもいいかなと言っていた。とはいえ最初は「制作へ」についての解説から始まった。

「制作へ」というエッセイでの目標は「制作」という概念を制作することだと上妻さんは冒頭で宣言しているが、この概念を制作するにあたって彼は、消費的態度から制作的態度へモードを変換しようということを視点を変えながら繰り返し言っている。二つの態度を簡潔に記すと下記のようになる。詳しくは本を読んでほしい。+Mさんのnoteにも解説記事があるのでまずはそっちを読むのもいいかもしれない。*1

消費的態度:頭にあるものを投影。はじめに鋳型があってその通りに作る。生産。
制作的態度:内面から探っていく。対話的プロセスによって生まれ変わる。作品をつくる中で相互的対話が行われ、<私が変わっていく>体験。作品との対話。

「制作へ」では「私は私ではなく、私でなくもない」という言葉が紹介されているが、このエッセイは一言でいうならこの言葉に集約される。これは「私は変わりゆく存在であり、にも関わらず私は私のままである」ということだ。たとえば、私を形作っていた物質は一年も経てばほとんどが入れ替わりまるで別人になっているが、どちらかが私でないということにはならない。

知り合いの話

「制作へ」の説明のひとつとして上妻さんの知り合いが受けた悩み相談の話があった。

女性にアプローチすることができないという少年が悩み相談をしてきた。アドバイスしたところ、少年は「よく分かりました」というがよく聞くと「自分にはできないことが分かりました」ということだった。

そうしたいという気持ちがあり、何をすればいいかを理解した上で、自分にはできないという結論になるのは、「いまの状態がずっと続くと思っている」からだ。上妻さん曰く「いまの自分にはできない」なら正しい。たとえば自転車に乗れるようになった人がもう一度自転車に乗れない自分に戻りたくなることはない(トークショーでは泳げる自分と泳げない自分で話していたけど自転車でたとえた方がぼくにはしっくりくる)。これは自転車に乗れる身体が制作されたということであり、一回乗れるようになってから乗れなくなることはできない。「自分」が変容している。「いまの自分にはできない」からといって将来に渡ってできないということにはならない。

環境の話

従来のアプローチでは「私が読書する」「私が散歩する」等、自分をその他と一旦切り離してから[主語+述語]で文にしてきたが、本来自分とは他の何かと切り離された存在ではない。[自分+何か]で一体のものだ。[自分+何か]で思考は発生する。「何か」に接することで思考が発生し、そのことによってまた違った風に「何か」を見ることができる。上妻さんはこれを対話的アプローチと呼んでいた。「なにもしていないときには意外となにも考えていない」とも言っていた。この「何か」は、本、植物、風景、動物などなんでもあり得る。自分を変えようとした場合、自分の脳をいじるというのは大変だが、環境を変えるのは簡単。本棚の中身を変えたり、住む場所を変えたりするだけで「自分」は変容していく。上妻さんは「環境を変えることで無意識を活性化させる」という表現をしていた。

ぼくもこういうことをたびたび考えていた。疎外を感じた時、あるいは外に何かを求めていることに気づいた時と言ってもいいが、そういう時ぼくはよく「ゼリーでいっぱいの袋に閉じ込められている」状態をイメージする。ぼくが動くたびに周囲のゼリーも動く。ぼくが動いたところにはゼリーが流れ込んできて隙間が埋められる。これで疎外された自分と環境の一体性を思い出すことができる。注意してほしいのはここでいう自分というのは、文法的に切り離された「主語的な」自分でしかないということだ。このイメージによってゼリーも含めて一体の存在だという意識が取り戻せる。これが上妻さんのいう対話的アプローチに通じている。対話によって制作に入るという上妻的な文脈に則るなら、自分が動くことでゼリーも動くという不可避の現象が対話だといえる。実際地上にいる生物には空気がまとわりついているのだし、魚にとっては水がそれに当たるのだろう。大気汚染や水質汚濁によって被る影響について考えれば、あながち的外れなイメージでもないと思う。

このイベントにはまったく関係ないが、このゼリー理論にはひとつ実益があった。ぼくは寒いのが苦手だったのだけど、少しだけ寒さに強くなった。以前は身体が寒ければぼくも寒かった。ゼリー理論で寒さを「見る」ようになると、不思議なことに寒さに鈍感になれた。身体は相変わらず寒さを感じているのにその感覚と自分との間に距離が感じられるのだ。細かいことをいうと、以前は「寒さ」というものが自分とは別に存在するかのように感じられていた。自分が寒さに攻撃されているという感覚だ。寒さがダイレクトに自分にぶつかってきていた。ゼリー理論では、自分が寒いというより自分の身体が寒いという感覚だ。原理的に「寒さ」を感じるためには自分の感覚器官が寒くなっていないといけない。つまり自分の身体が寒さと同化しているのだ。しかしそれは自分の物質的な部分であって、意識はそれを俯瞰している。ただ眺めるだけの位置にいる。だから寒さをダイレクトに感じないで済む。心頭滅却って案外こういうことなのかもしれない。修行したわけでもないのでちょっとした変化でしかないけどぼくにとってこれはわりと大きなメリットだった。

全員ブッダ状態

終盤で上妻さんが「満たされていない人は満たされてからじゃないとこういう方向に考えられないから難しい」というようなことを言っていた(かなりうろ覚え)。そこから「ブッダは生まれた瞬間から王子だったから〜」という話に続いていくのだが、話の中で上妻さんのその悩みは解決した。これはその話。

ブッダは生まれた瞬間から王子だった。はじめから満たされていた。だから消費的な幸福が虚しいことに気づいて脱却する方向に進むのも自然だった。そういう意味でも恵まれていた。とはいえ現代人は昔の貴族ができたことよりも多くのことができる。ある程度金を出せば消費しきれないほどの作品に接することができる。一昔前だったら高い金を出してレコードを収集してるような人間がその点で他の人間よりも優位性を得られた。いまはSpotifyだったりApple Musicだったりがあって敷居が下がっていて誰かが見つけた音源はみんながアクセスできる。動画配信についても同様。誰でもほとんど同じだけのものを享受できるような世の中になった。しかしそれで幸福を感じられるかといえばそうではない。消費的な優位性が消滅し、そこで得られていた承認が得られなくなっているからだ。我々は消費文化ではもはや満足感を得ることができない。そういう意味では現代人も産まれながらにして全員ブッダ状態といえる。消費を脱却する方向に目を向ける必要がある。

自分を稀薄にする

上妻さんが突然トイレに立ち+Mさんに繋ぎをお願いするという無茶ぶりをした際の+Mさんの話。

上妻さんはよくトイレに行くのだが、それはこういう場に立つ際にカフェインを入れるしアルコールも摂取するからだという話で、これは何をしているのかというと自分を稀薄にしているのだということらしい。それが無意識を活性化するということに繋がる。トイレが近いという話から「自分を稀薄にする」という視点につながるとは思わなかった。この話がちょうど終わったタイミングで上妻さんが戻ってきた。+Mさんは戻ってきた上妻さんに冗談めかして「完璧に繋いだよ」と言っていたが、本当にそうだった。

質問コーナー

本編が終了した後に質問コーナーがあった。質問や感想を紙に書いたものを回収しそれに回答していくという形式だった。上妻さんは「今日のトークショーの内容に関係がなくてもいいし、ちょっとした感想でもいい」と言って、集まった紙すべてに律儀に回答していた。ぼくは三つほど質問を書いた。すべて回答してもらえたのだけどその内の一つがぼくの意図と異なって受け取られてしまった。

それは「存命の思想家、芸術家で注目している人はいますか」という質問だった。上妻さんからは「おそらくこの人は現代思想とかを定期購読して追っかけてる人なんでしょう」という前置きの後で「そういう読み方ではなくて自分の興味のある人物などを起点にその人物が影響を受けたもの、さらにそれらが影響を受けたものという風に掘っていく読み方をオススメします。これを三堀りくらいするとオリジナルのテーマが見つかります」といった回答を頂いた。ぼくが訂正したかったのは上妻さんがイメージした人物像だ。ぼくがあえて「存命の」と書いたのは、むしろ上妻さんがオススメする方の読み方しかしてこなかったからだ。体系立った知識もなく、最新の思想や芸術を追いかけているなんてこともないため、これまでの潮流とその暫定的な結論として現在こういう方向性になっているそして今後はこんな風に進んでいくだろうというような簡単な解説を期待していた。やっぱり現在注目されているのはハーマンとかメイヤスーの思弁的実在論なのかなとか思いながら、ただぼくはそれらについて名前しか知らないので、そうであるならその辺りのことを語ってもらいたいと思ったし、そうでなくて名前も聞いたことのないような話が出るならそれでもいいと思っていた。あの場で訂正しておけばよかったなと思っている。それだけが心残りだ。

 

場所:京都岡崎蔦屋書店ロームシアター3F第2会議室
時間:14:00-15:30の予定だったが、実際は16:45くらいまでやっていた。そのあとサイン会。
インタビュアー:+M(@freakscafe)さん 
詳細:real.tsite.jp

 

AIおばさん

2018/12/03

今朝通勤中に違和感のある出来事に遭遇した。ぼくがいつもの道を何気なく歩いていると前方の何もない道の途中におばさんが突っ立っていた。おばさんはなぜかぼくの方を見ていた。いつから見ていたのだろう。同じ姿勢でじっと見ている。気にしていてもしょうがないのでそのまま歩いていると当然距離がどんどん縮まってくる。おばさんはまだこちらを見ている。もしかしてなにか言いたくてぼくが近づくのを待っているのか?そんなわけないよな、でも近くを通るのやだなあと思っていたら突然おばさんが前方に向き直って歩き出した。この時の違和感をどう説明するべきか悩むが、その瞬間にゾッとして全身に鳥肌が立ったことは確かだ。率直な感想を述べると「操られている」と感じたのだ。おばさんは自分の意思がないRPGの村人のような存在として、ぼくがある地点まで進んだら前に進むように作られたキャラクターだったのではないか。おばさんはきっと、ぼくがそこにたどり着くまであの場所にいた。あの場所でずっと後ろを見ていた。ぼくが出社拒否でもしていたのならいつまででもあの場所に突っ立っていたことだろう。

手を振る

2018/11/30

帰りのバスの中でラジオを聴いた。ぼくがぼんやりと無駄に歳を重ねている間に世の中は便利になっていて、もはやリアルタイムじゃなくても聴きたいラジオ番組が聴けるのだ。それでここ最近好んで聴いている神田松之丞という講談師の番組*1の1125放送の降板回と1118放送の浅草ノスタルジー回を聴いた。この浅草ノスタルジー回がほんとによかった。神田松之丞が浅草芸能大賞新人賞を受賞したということで、浅草に関する思い出話をしつつ受賞の理由はこれなんじゃねえかあれなんじゃねえかって考察する回だった。松之丞が浅草演芸ホールの寄席に通っていた時、三笑亭夢楽師匠というおもしろい人がいて、いまではもう亡くなっているそうだが、その当時夢楽師匠は「ヤギとセックスした」ってネタでいつも浅草を笑わせてたらしい。ここのくだりが本当に面白くて、バスの車内にも関わらず声を出して笑ってしまった。この番組を数ヶ月聴いた中で間違いなく一番笑ったと言い切れるくらい好きな話だったから、そこだけ何度も聴いて笑うっていうのを繰り返して、ボタンを押すたび気持ちよくなる猿みたいになってたら、隣に座ってたおばさんがチラチラこっちを見てることに気づいて、でもこっちはもう猿だからやめられないしおばさんはおばさんで気になるしでどうしようどうしようと思いながらもバスの車内にはぼくの押し殺しきれなかった笑い声だけが相変わらず聞こえていて、そうこうしているうちにバスが終点に着いてみんな降り出した。もちろんおばさんも降りていく。で、この夢楽師匠の話が、ヤギとセックスして最後帰る時ヤギが手を振ってたっていうオチだったんだけど、そこばっかり聴いていたせいで、気づいたらぼくも降りていくおばさんに手を振っていた。

TBSラジオは過去の放送が保存されていて*2、webでもアプリでも聴けるし*3、何より放送時間を気にせず後から好きな時に聴けるので便利です。)

*1:radiocloud.jp

*2:すべての番組ではないらしい。例えば「伊集院光深夜の馬鹿力」は見当たらない。

*3:

・web

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・アプリ

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映画みたい

2018/11/29

バスが遅れてきたせいで仕事に遅刻しそうになった。急いでいたから警備室の前を素通りしたら、人間がものすごい剣幕で飛び出してきて「バッジ(社員証)見せてください!」と叫んだ。映画みたいでよかった。普段これほど真に迫った人間にお目にかかることがないので、つい迫真の演技だと錯覚してしまったのだと思う。ここ最近はわざわざ社員証を見せることもなく挨拶だけして通っていた。今日の素通りとほとんど変わらない。もう顔を覚えられているんだと思っていた。それもあってさっきまで眠そうに座ってたおじさんがこんなにドラマチックに登場するだなんてまさか予想できなかった。こうやって唐突に日常を逸脱することがあり得るのだということにすこし嬉しくなった。