無心のダイナミズム

『無心論』が語るのは、「心は無い」という一点である。心が実体としては存在しない。あるいは、認識する・生活する……など、そうしたすべての「はたらき」が重要なのであって、その先に実体としての<心>を求めてはいけない。したがって、「あらゆる出来事のうちに既に働いている無心に目覚める」とは、世界を「はたらき」の相で捉えるということ。むしろ「はたらき」を生きるということ。心という実体を問うのではなく、心の「はたらき」を自ら生きるということであったと、さしあたり、考えてよいことになる。*1

『無心のダイナミズム』を読んだ。「無心」をテーマに本を探していたら偶然発見したものだ。その中に、菩提達磨の「無心論」という本について書かれた箇所がある。これが簡潔かつ要点を抑えていて、たいへん腑に落ちた。

「無心論」は師と弟子の問答の形で進んでいく。*2

弟子:心は有りますか
師:無心だ

弟子:どうして無心だとわかるのです
師:どこを探しても見つかりはせぬ

弟子:無心であるなら、罪も徳も存在しないはずです
師:勝手に心が有ると思い込んで、さまざまの業をこしらえているのだ

弟子:生死と寂滅なども無心でしょうか
師:間違いなく無心だ、心が有ると思い込むから、迷いと生死、悟りと寂滅などが存在するにすぎぬ

弟子:悟りも寂滅もないのに、仏たちが悟りを見たというのはどういうことですか
師:世俗の表現によって見たというにすぎぬ。真理の世界では何も見ることはない。心が有るから一切が存在するのであり、無心であれば一切が無であるとわかる。

弟子:われわれは心の世界に生きています、どう修行したものでしょうか
師:どんな事態に処しても無心であると知れば、それが修行である。無心がわかるとすべてが寂滅するから、それが無心なのだ

ちょいちょい端折ったけど、だいたいこんな感じでやりとりをした末に、弟子が悟るという話。これを説明的に記すと冒頭の引用になる。これを説いたとされる菩提達磨禅宗の始祖なのだけれど、後世の禅者もこれ以上書く必要なかったのではと思う程度には完成されている。

だれかが「できると思うのもできないと思うのも、どちらも正しい」と言っていて、そうだねと思ったことがあったけど、「心が有るから一切が存在するのであり、無心であれば一切が無」もそれと同じ原理だ。もっといえばその中心を射抜いている感じがする。

『無心のダイナミズム』は、「無心論」の解説ではないので、世阿弥や沢庵や石田梅岩などにもそれぞれ触れていたが、どれもよかった。

たとえば、

石田梅岩が「無我無心にして天地を知らず、ただ(中略)雀の声のみ」と語る時、それは、聴覚機能だけが最後まで残っていたという意味ではない。それまでの意識の働きは一度完全に消滅し、「天地を知らず」となった上で、あらためて「雀の声」が、天地も自己も包み込む仕方で湧き起ってくる。

一度消え、そして、新たに生れかわる。正確には、この「そして」は、時間軸における前後関係を意味するのではなくて、一度消えることが、「即」、新たに生れかわること。したがって、新たに生れかわるための手段として、一度消すのではない。むしろ(修行者の視点から言えば)、ただひたすら消すことに努めていれば、時に適って、新たなはたらきが、おのずから、湧き起ってくる。吐く息を見つめていれば、静かに、自然に、新たな息が入ってくる。

のくだりでは、梅岩の個人的な体験がトレースされて荘厳な感覚に巻き込まれた。その感覚以前に持ちうるイメージも分かりやすく記されていて、スッと入ってきた。

一通り読んで、辻潤の息子が、発狂して精神病院に向かう父親に「誠実でいろ」と言われていたのを思い出した。どうしてもこういった内容に触れると辻潤を思い出してしまう。彼は「無心であれ」と言っていたのだ。俗世間の中にいると誠実でいることが難しい。誠実であることは正直であることとほとんど同義だと思うが、本当の気持ちを正直に打ち明けると、空気を読めとか不謹慎だとか裏切られたとか騙されたとか喧嘩を売っているのかとか、その辺の一般的な依存症者から攻撃を喰らう。彼らは愉快な論理で社会に適合していて、数だけは異様に多い。社会に適合しているというのは、相互依存を前提として生きているということだ。独立した人格を前提とした個人主義的な生き方は和を乱す不届き者のようにしか映らないのだろう。とはいえ、その辺の反感もすべて有心だから気になるわけで、無心になればそういったこともすべて無に帰すのだ。

しかし禅は無を目指すわけではない。山奥に引きこもってひたすら修行している方が、世間と交わりつつ修行するのより無心を得るのが容易だろうと思うが、それを理想とはしていない。むしろ世間で普通に生活をしながら無心でいることを伝えている。

その辺の微妙なさじ加減が心理的に調整できるようになってきた。

このところユリイカに詩を投稿しているのだが、正直いって「これが掲載されたらなんなのか」と思わないこともない。というか掲載されないたびに、その無意味性が強く感じられてくる。その時に「すべてが無だ」という地点に留まっていると、もう続けることはできない。なんでもすぐに投げ出してしまうのはそういう考えがあるからだ。思えばシュティルナーだって無は結論じゃなくて前提だった。無の上に創造して生きることを教えていたのだ。あえて世間に居続けることの意味を、無意味の上を歩く意味を創造していかなくてはいけない。ということを言葉で理解していただけでは使い物にならないんだなということが、ここにきて分かった。あえて世間に留まるという意識で、もう少し投稿を続けようと思う。

*1:

無心のダイナミズム――「しなやかさ」の系譜 (岩波現代全書)

無心のダイナミズム――「しなやかさ」の系譜 (岩波現代全書)

 

*2:世界の名著 18 禅語録』参照