実相

公園のベンチに座っていたら、子供がボールを追いかけてぼくの前を通り過ぎた。子供はボールを拾い、振り返って向こうに投げる。ぼくはそのボールの行方を何気なく目で追った。ボールを受け止めたのはぼくだった。ベンチに座っているぼくはぼくのままだ。それを認識した瞬間にまたぼくはベンチに座っているぼくに戻った。ボールを受け止めた少年の姿形はまったく見覚えがないのに、それとは無関係にその瞬間はたしかにぼくだった。こういってよければ、他人として存在しているぼく自身だったのだ。

これは夢でもなんでもない昔の話なのだけど、この一瞬の視点移動がぼくにある種の思想を強烈に焼き付けてしまった。ユング集合的無意識ヴェーダの梵我一如、釈迦の拈華微笑、ブルトンシュルレアリスムデュシャンの「死ぬのはつねに他人である」、バタイユの「死を前にしての歓喜の実践」。その辺りの諸々がすべて体験として理解された。言葉で表現するのは難しいが(というのは、それに関しては肯定と否定の螺旋階段状の理解、つまり拡散していく無限時間的な理解を求められているのに対し、言葉は道具として包括を指向していて空間的な表現しかできないため、表現した途端に嘘になってしまうからだが)、それこそユング以下に挙げた上記のような通常の言語表現と異なる方法で表現することは、受け手をかなり選ぶとはいえ不可能ではないのだと思う。

いつかぼくの詩にすべてを解きほぐす力が与えられたら、とも思うが、ぼくのこの理解が正しければ、現象と現象間を構成する無数に張り巡らされた赤と黒の糸が現実のすべてなのだから、正直なところ、ぼくが苦心することも達成感を感じることも、それに影響を与えることはできない。それはぼくとは無関係のところから降り注ぐ恩寵でしかなくて、ぼくにできるのは無我的な祈りを無対象的に捧げることでしかない。誰もが子どもだったことを思い返すことで、存在することの根源的な悲しさを思い出すことができる。さらに物心つく前にまで遡ることで、暗闇に取り残されて泣き続けている無我の子どもの純粋な祈りを拾い上げることができる。

できるのはその祈りを祈ることだけなのだ。せめてその力が欲しい。草木も動物も人も、すべてが安らかに眠れるのなら、それが一番いいことだと思う。ぼくが心から肯定できるのはそれくらいだ。