雑感

 ぼくはもっと孤に閉じこもった方がいいのだと思う。外の世界にはほとんど興味がない。世の中には生産することが尊いとする価値観が漠然と根付いているように思えるのだけど、ここでいう生産とは資本主義が余剰価値の多寡で富を計算することの謂いであって、実態は依存と奪い合いでしかない。資本主義に過剰適応したみなさんは「アイデアは組み合わせだ」などと言って世界を積極的につまらなくしていくばかりで、ただ金を集めるテクニックを喧伝しているだけだという自覚がないように見える。それを生産だ価値だと言い張って威張っている人間は好きになれない。

 0を1にするということでいえば、個人が孤独な世界から掬い出す以外にはないと思う。個人の孤独な世界は頭というよりも身体に根付いている社会以前の自然の領域だ。ワナビの下手くそな小説だって、Twitterに書かれたメンヘラの泣き言だって、それが自然のものであるなら、他の1を組み合わせた加工品なんかよりも唯一的で貴重なものだ。金儲けがうまい奴らはその唯一性を無価値だと一蹴して、自分たちの作ったものが価値だと言っている。だから好きになれないのだ。

 もっというなら生産することにそもそも価値はない。価値を見出す個人がいなければ、何が生み出されようとぜんぶ無価値だろう。価値があるのは勝手に価値を見出した受け手の中だけの話なのだから、作り手が自分で「これには価値があるぞ」と主張すること自体がおかしい。

 外の世界には不毛な価値の競争しかない。勝者は多くを得るだろう。だけど得たところでそれがなんになる? 価値が嘘なんだから多く持ってるやつが幸福だというのも嘘だ。ぼくは信じない。ポウイスが『孤独の哲学』でこう言っている。

人間存在を幸福にする術のすべては、ある種の思いきった単純化にある。われわれを不幸にするものは、われわれが欠いているものではなく、われわれが有っているものだ。そして自分自身と自分に最も親愛な人々とから、必要でないあらゆる所有物を剥ぎ取った時、われわれは人生を真の記念碑的な意義において把握するようになる。

 要するに、余計なものを持っているから不幸になるということだ。ぼくはポウイスの見方に共感する。たとえば金がなくて友達もいないから一人で神社の境内に座り込んでいたら猫が寄ってきて指を舐めたとかそういうことで幸せに思える時だってある。猫が寄ってこなくたって、風が気持ちいいとか陽に当たって気持ちいいとかそんなのでも充分だ。そう思えないのは、金がなくてどうしようとか友達がいないから自分には価値がないだとかそういう余計なものを持っているからだ。

 退屈でいるとそういう余計なものを集めてしまってよくない。内なる世界が豊穣であれば、何もなくたって退屈しないで済む。価値などとは無関係な素朴な時間を過ごしていきたい。