個人日誌2021/01/04

ブレイク詩集

ブレイク詩集*1を読んだ。

ウィリアム・ブレイクについてはいろんな文献で目にしたことがあったので、読む前から勝手なイメージを抱いていた。もう少し詳しくいうと、ニーチェ的な反禁欲主義をソロー的な素朴さで表現した詩人だと思い込んでいた。ぜんぜんそんなことはなかった。

率直な感想をいうと、なんかうるせえなと思った。教会を否定して自分の神を称揚しているのはいいんだけど、それがなんか教条的で、ってことはつまり自分で否定している教会のやり口そのまんまだったからおとなしく読んでいられなかった。

教会の神よりも、より世俗的な神をうたっているけれども、結局のところ、フォイエルバッハが「人間の本質は、人間の最高の存在である」「もはや神が神としてあらわれるのではなく、人間が神としてあらわれるべきである」と言って、「神」の中身を昔ながらの神から「人間の本質」にそっくり入れ替えたのとたいして変わらない。なぜ「神」の座を残しておくのか。なぜそこに座った者を崇めるのか。崇める側のその卑屈さ自体が神聖さを演出しているだけで、そこには空洞しかないんじゃないのか。

自分が運転席に座らないような思想は、もはや受け付けなくなってしまった。わざわざ「神」とか「人間の本質」とかに意見を聞かなくてはいけないのかよと思う。右に曲がりたい時は勝手に右に曲がればいいだろう。

思想は遊び道具として弄ぶくらいがちょうどよくて、取り憑かれるのはよくない。というのはシュティルナーの思想なので、ぼくがこれに取り憑かれていたらしょうもない話だ。とはいえ聖者が神と合一するように、思想と渾然一体になっている状態には普通に憧れる。言葉も行動も自発的で、しかもそこに思想が感じられる。辻潤の言う「思想を生活(行為)に転換する時にのみ、その人は思想の所有者である。」の状態だ。そうありたいと思う。

実際はどうだか知らないが、シュティルナーはそういう状態になっていたのだろう。でなければ、まず自己を批判しなくてはいけない。

読んでたら途中で眠くなって寝てしまっていた。中途半端なので最後まで読むけど、これのなにがいいんだろう。ぜんぜんわからなかった。

A GHOST STORY

A GHOST STORY*2を観た。

根源的な悲しみがあった。GHOST は人々の暮らしをただ見守るだけの存在だった。すぐそばにいるのに誰からも認知されないでいるのは、それ自体悲しいことかもしれない。でもそれよりも、人々の普通の暮らしの方がもっと悲しい。誰もがなにかをしている。笑ったり泣いたり、でもそれは何にもならない。

途中、長広舌を披露していた人がいた。その人は、みんな死ぬ、子供も死ぬ、地球も死ぬということを言っていた。たぶん何にもならないということを強調したかったのだと思う。

GHOST は食器を割って、そこにいる人を怖がらせたりもしていたけど、ほとんどはただ立って見つめていただけだった。だけど、GHOSTにも恋人のメッセージを読もうとする意志があった。映画の中の人物はだれひとりそのことを知らない。ぼくだけがそれを見ている。見ることしかできない。ぼくの GHOST を見つめる目は、ちょうど GHOST が生きている人を見る目と一致していた。

ぼくが GHOST の目でこの世界を生きたら、たくさんのことを許せるだろう。それはぼくの悲しみではない。ただ生きているということが悲しい。

前に同棲していた相手のこともそういう目で見ていた。それを思い出した。

*1: 

ブレイク詩集 (岩波文庫)

ブレイク詩集 (岩波文庫)
 

*2:

A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー(字幕版)

A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/03
  • メディア: Prime Video