1421 バベルの図書館30 逃げてゆく鏡

ずっと読もうと思っていた。たぶんパピーニの名を知ったのは辻潤からで、そこから計算すると、かれこれ10年くらいは経過している。辻潤の「にひるの漚」*1にパピーニの自叙伝が引用してあった。*2

よほどお気に入りだったらしく、パピーニを指して私の親友と書いている。それだけでぼくが読むのに十分な理由になるのだが、古書が比較的高価だったしなんとなく機会に恵まれず忘れていた。すると今度はカイヨワ『夢について あるいは暗黒の島の虜人』*3の訳者あとがきに「病める貴族の最後の訪れ」(『逃げてゆく鏡』*4収録の邦題は「<病める紳士>の最後の訪問)」)から引用されている*5のを発見した。その引用がまた良くて絶対に避けては通れない作家だと思ったんだけど、そのままずるずる数年が経過していた。その後、本をまともに読めなくなってウィッシュリストに入れておいた本を次々削除していって残ったのがこれだった。結果としてこれは読むべき本だった。おかげで読書するためのモチベーションが復活した。

10篇収録されているが、誇張なくすべてが良かった。ここに収録されている短篇には自分のことが描かれている。この自分とはぼくの自分のことではなくて、無人称の自分である。つまり誰にでも当てはまるであろう自分のことだ。

ボルヘスが序文で「この作家が度し難いほど徹底的に詩人だったということなのであり、その主人公たちは、さまざまな名のもとに、等しく詩人の自我の投影であるということなのである。」と書いた通り、パピーニは詩人であった。それは、言葉遣いの点でなにか詩的な表現が使われているというわけではなく、パピーニが彼自身を追求した結果として人間の根源に迫っていることで、逆説的にすべての存在に共通する生の苦悩を掬いあげていることによる。

 

# 作品

泉水のなかの二つの顔

過去の自分と対峙する話。自分の生き方が根本的に変わってしまったことに気づいたとき、これまでとは違う新しい道を選ぼうとするときに、きっと感じるであろうことが書かれている。作中では結局過去の自分を殺すことになるが、生きている以上は避けられないことだと思う。

完全に馬鹿げた物語

自分の生活のすべてを知っている男と対峙する話。これも過去の自分と対峙する話のレパートリーのひとつと言っていいだろう。全生活史を目の前で淡々と余すところなく読み上げられるのだが、そこには自分でも忘れていたような黒歴史まで含まれており、しかもそれを出版すると言っている輩に耐えられる人間がいるだろうか?

しかもあの男は、臆面もなく、あの物語を自分が勝手に空想のうちに生み出した、と断言したではないか。それでいながら、このわたしに向かって、わたしの生活を、しかもわたしの全生活を、想像上の物語として、呈示してみせたのだ!(P42)

今朝方、遅い時刻に目を覚ますと、奇妙な印象が身につきまとって、離れようとしないのだった。自分がすでにしんでしまったようであり、埋葬させるのをただ待っているだけの身のようでもあった。わたしはただちに葬儀のための手配をした。何一つ手落ちがあってはならないと考え、みずから葬儀社へ出掛けた。そしていまは、刻一刻と、柩の到着を待ち受けている。早くも、彼岸の世界に属しつつある自分を感じていて、わが身を取り巻く一切の事物が、もはや自分とは何の係わりもなくなり、何もかも終ってしまった、何もかも過ぎ去ってしまったという、いわく言いがたい気配を反映させている。(P47)

この最後の感慨は「泉水のなかの二つの顔」とも「きみは誰なのか?」とも通底している。パピーニは、自分のことを反省する視点の自分と反省される側の自分との分裂に敏感だったのかもしれない。反省する側も常識的には別人とは言えないのだが、とはいえ比較してみるならやはり自分とは反省される側の自分なのであって、反省する側の自分と直接的な自我とはやはり感覚的に隔たりがある。しかし反省する側の自分を葬ってしまった作中人物には喪失感や虚無感が漂う。

精神の死

精神の力だけで自殺しようという男の話。

《こうではない。——よいか。死の恐怖に打ち克たねば。だからこそ、自殺の準備を整えるのだ。しかし、こうではない。——力ずくによる自殺行為。それは、屠殺屋のする真似だ。そんなことは避けなければ……——わたしのためにふさわしい方法を考え出すこと——おのれの命をおのれの力で、少しずつ破壊し、否定していかなければ。不意に、肉体を切り刻んだりしてはいけない。そういう真似は、馬鹿げている……》(P53)

あなた、気をつけたほうがよいですよ。どんな変人かは、ご覧になれば、すぐにわかりますからね! 過去の記憶など一つもなく、あの人にとって重要なことなどこの世に存在しない、と言ってもよいでしょう。(P59)

みずから死を招くための新しい方法、みずから手を下さずに死ぬ方法、すなわち最もすぐれた自殺の方法について、あなたは言及されています。(P63)

では、人生の意味が死のうちにあることを、それがひたすら死のうちにのみあることを、あなたはまだわかっていないのですか? ひたすら死を望む者だけが、この世にあるうちからすでに死んだ気持になっている者だけが、人生を楽しんでいるのです、その味を味わっているのです、その意味を知っているのです!(中略)ぼくにとって、それは発見でした、啓示でした、新しい存在形態の始まりでした。(P67)

あの日以来、ぼくは生を諦めて、死んだ魂になろう——たちまちに息を引き取ってゆく者になろう——と決意したのです。ただし、不自然に、急に、死を迎えたり、外的手段や物質的手段を用いて、死ぬのではありません。埋葬が必要になる以前に、早くも、一個の死骸となるのです——それは死が自然なものであり、みずから招いたものとは思われないような方法で、自殺することなのです。ここに、ぼくの発見がありました。みずからの意志で、みずからの精神の力で、みずからを殺すこと。武器を使ったり、腕力を用いたり、毒薬を含んだりせずに、みずからを殺すこと。死にたいという意志の力で、死んでゆくこと。それこそは、たったいま、ぼくが実行しつつあることです。(P72)

他の人々から見れば、ぼくは何物にも値しないでしょう——ろくに物も食べないし、本も読まない、みずから楽しむこともないし、人を愛することもない、遊びもしなければ、稼ぎもしない。ぼくはすでに半ば死んでいるのですから。かすかに息を吸って、わずかに動いているだけ…… でも、ぼくがこういう一日一日を手放すことはないでしょう。たとえ、ロンドンじゅうの美女や、アメリカじゅうの金庫と交換しないかと言われても。他人にとって空と呼ばれるものも、ぼくにとっては一つの窓にすぎない。(中略)ぼくを心のうちで愛してくれるほどに完璧な女性はこの世にいないし、ぼくは彼女を毎日、頭髪から足の指先まで、まるで『聖書』のなかの神のごとくに、創造することができる。そしてあなたもご存知の、あの狂信的な哲学者たちが生み出した、思索の体系も概念も、所詮は、時間と空間の枠組みを越えて現実から直接に体得したものに比べれば、紙の上の戯れであり、糸の切れた凧にも等しいでしょう……(P74)

<病める紳士>の最後の訪問

自分が誰かの夢の中の存在に過ぎないことに気づいた人物の話。

なぜ、わたしこそが病である、わたし自身が病だ、と言わないのですか? わたしが持っているものなど、何もありません、おわかりですか? わたしに帰属するものなど、何もありません! そうではなくて、わたしが誰かのものなのであり、わたしの帰属する何者かがいるのです!(P85)

おそらく、この世界全体でさえ、彼に似せた、さまざまな存在たちの夢が往来する、変転きわまりない被造物に過ぎないでしょう。だが、わたしとしては、あまり概念的なことは申し上げたくない。形而上的な議論は無思慮な輩に任せておけばよい! わたしとしては、自分がある壮大な夢想者によって生み出された一想像物に過ぎないことを、恐ろしいまでに確信している。そのことだけを言っておけばよい。(P86)

もはやいまのままのわたしではいたくない

まったく別の存在になりたいと考える人物の話。

要するに、この世に存在しないことを願っているのではなく、むしろ絶望的なまでに激しく別の形で存在することを、別人になることを、わたしは願っているのだ。しかも、いまのわたしにならないことへの、絶望的なまでの意志を、持っている。なぜならわたしこそは、自分が決して持てないであろうものを持ちたいと願う人間なのだから。わたしはわたしでない者になりたい。なぜなら、わたし以外の者になれないことを、わたしは知っているから。(P103)

きみは誰なのか?

自分のことを誰も知らない<時の裂け目>に彷徨い込んでしまった人物の話。

きみは誰なのか? ついに、自分自身に向かって、わたしはこの問いを発した。この問いの重大さに、かつ深刻なことに、気づくやいなや、他の事はすべて消えてしまった。(P123)

魂を乞う者

《これが最も平均的で正常な人間の生涯なのだ。こういう連中を基準にして、頑固な医者たちは、わたしのような人間を、特殊なものと軽蔑し、変人扱いし、頽廃的な精神の持主である、と呼ぶのだ! これこそが、お手本となる人間、典型的な人間、わたしたちの時代の英雄、巨大な機械のなかの小さな歯車、長い城壁の一片の石ころなのだ——こういう人間ならば不健全な夢は見ないし、狂気の空想に走ることもない。わたしなどにはとうてい不可能な、生きているとは思えない、想像を絶した存在。そういう人物が、たったいま、わたしの目の前にいるのだ——自分の色褪せた仕合わせに気づかない恐るべき存在。》(P139)

あの晩以来、二度と、わたしには普通の人間たちが笑えなくなってしまった。(P140)

逃げてゆく鏡

見せかけだけの目的、明日に向かって奔走するしかない人間の根源的な悲しみをぶちまける話。

この恐るべき事実を、ついに、彼らは発見するであろう。すなわち、未来は未来としては存在しない。未来とは空想の産物にすぎず、現在の一部にすぎない。そして日に日に逃げてゆき、遠ざかってゆくこの未来のために、不安な生活や、悲しい生活や、苦しみの生活に耐えるのは、限りなく愚かしい日常のなかでも、最も愚かで痛ましい行為である。
《みなさん、わたしたちは死のためにおのれの命を失っている。空想のためにおのれの現実を浪費している。わたしたちは日々を、実際には何の代わり映えもしない別の日へ、導いてくれるだけだというのに、そしてそれ以外には、何の価値も持たないというのに、ただそれだけの理由で、価値あるものと思い込んでしまっている…… あなたがたの日常は、自分の破滅のためにあなたがた自身がみずから仕組んだ、苦い欺瞞そのものだ。そして逃げてゆく鏡へ向かってあなたがたが走りつづけることを、冷たく笑えるのは、ひとり悪魔だけであろう!》(P167)

# 目次

序文 J・L・ボルヘス
泉水のなかの二つの顔
完全に馬鹿げた物語
☆精神の死
☆<病める紳士>の最後の訪問
もはやいまのままのわたしではいたくない
☆きみは誰なのか?
魂を乞う者
身代わりの自殺
逃げてゆく鏡
返済されなかった一日

*1:この「にひるの漚」もまた良いので、特に良い箇所を引用しておく。パピーニは辻潤の精神的な同族だと思われるので、間接的にパピーニの紹介にもなるだろう。ちなみに「漚」は「あわ」と読む。「泡」の意味。

一切は生きている上の話だ。わずか今から百年も経てば、現在地上に蠢動している生物、少なくとも人間はみんな消えてなくなってしまうことはまずたいていまちがいがなさそうだ。死んでしまえば今日死んだ人間も、百年後に死ぬ人間もつまりは同じことになってしまう、世の中で一番確かなことといえばまずその位なものだ。

みんな自分達が好き勝手な熱を御相互に吹き合うがいい。すべては生きている上での話である。

*2:「にひるの漚」は、講談社文芸文庫の『絶望の書・ですぺら』で読める。

*3:

*4:

*5:「私が実在するのは、私のことを夢にみる一人の人間が存在するからです。睡り、夢をみ、私が行動し、働き、生きているのを見ている一人の人間、いま、その人は、こうして私があなたに話をしているさまを夢にみているのです。その人が私のことを夢にみると、私の存在がはじまり、夢から覚めれば、私は存在しなくなるのです。私は、その人の想像力のたわむれにすぎず、その人の精神が創りだすものであり、はてしない夜の幻想に招かれた客なのです。この一人の人の夢が、ながく持続し堅固なものであればこそ、目覚めている人々にとっても、私の姿が目に視えるようになったのです。」