慣れ

 現実をフィクションとして受け取ることに慣れてきた。

 ——こうして文章を書いているぼくはいわゆる自我である。そしてこれを書きたいと思っているのは自我ではない。書きたいと思わせられているのが自我である。分かりやすいのが気分で、自我にはどうすることも出来ない。気分は自分で拵えるものではなく自然に発生するものである。だから<自我以前>がある。だから自我が自分で選択していると思っているすべては<自我以前>にあらかじめそうするようにしむけられている。ぼくはそれの乗り物だ。車はいまからどこに行くのかを知っているだろうか? 自分で進む道を選択できないのなら、そこに自分の意思を反映できないのなら、ぼくには何も変えることが出来ない。これは運命なのだ。

 運命の渦中にある物語はすべてフィクションである。運命という作者の創作物であるからだ。作者が有機体であらねばならないというのはただの偏見だ。作者は概念であって良いはずだ。生物がすべてを作らなければならないというのなら最初の生物が生まれることなどない。

「作中人物であるぼくにとっては痛みも苦しみも悲しみも切なさもすべてがリアルだ。それらを克服する方法を探している。克服できるなら錯覚でも魔法でも異次元への逃避でも明晰夢でも白昼夢でも詩でも俳句でも小説でも音楽でもホラー映画でもスポーツでも恋愛でも運命愛でも何でも良いのだ。」

 だとか言っているこの自我でさえ運命である。ぼくは「自我にまつわるあらゆる不快を克服しようとしている」と意識させられる運命であり、「人生丸ごとがそれの試行錯誤であった」と結論づけられる運命なのである。

 こうやって運命の影をちらちら感じられるようになってきているのが慣れの成果である。運命なら間違いはない。安心だ。

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