「いつまでも、一緒の世界に、あたしたちはいるのよ」

 ステーシーを再読した。

ステーシーを買い換えるごとに”詠子”という名を付けるのはいささか考えものだなと思うのだが、結局渋川はいつも買い物に詠子と名前を付けた。

(ステーシー/大槻ケンヂ角川書店/1997.7.25)

 次から次へと新鮮な”詠子”に乗り換えてると思うとずいぶんひどい男のように見える。ステーシーがすでに死んだ人間であることを無視すれば確かにひどい男だ。だけれども、実際のところ渋川が求めていたのは新しいステーシーではなくて、ステーシー化する前の詠子であり、一緒にミルク・コーヒー・ダンスを踊った詠子であり、再殺の権利とともに「世界中で詠子と一緒に居る時だけはスヤスヤと眠っていいんだよ」という言葉をくれた詠子なのである。

 序章でその詠子がこう言っていた。貸りたハムスターを死なせてしまい違うハムスターを返してしまったことを打ち明けた友達へのセリフだ。

詠「じゃあ同じじゃない。砂置子に殺されても、ハムスターはまた詠子と会えたんだよ。お別れしても、どんな形でも、また会えたなら、それでチャラよ」

(同上)

 形而下の肉体などはじめから無視していたのだった。ステーシーとなっても、さらには別のステーシーであっても、どんな形でもまた会えたならそれでチャラ。なのであった。「あたしのカラダだけが目当てだったのね!」という展開とは正反対である。たとえ容れ物としての肉体が変わってしまっても、渋川にとっての詠子はひとりしか居ないのだ。