孤独者

 世界にはぼくという孤独がひとりいるだけだった。人なんてどこにもいなかった。ぼく自身もそれは例外ではない。人ではなかった。単なる孤独なのであった。

 「人生は動き回る影に過ぎぬのだ。」とシェイクスピアマクベスに言わせていたが、つまり人生とは見せかけのものであって実体はそこにはないのだということが言いたいのだろうと思う。このセリフを引用したのは、ぼくのいう孤独がこのマクベスの言う影に近いようだからだ。

 人は色や形に名前や意味を付与して楽しむがその色や形は見せかけである。しかし主体を人だとすることこそが見せかけであり「見せかけの色や形」さえもが付与されたものであった。あるのは孤独だけである。生命とは孤独の比喩であり、ぼく以外にそれを持つ者はいなかった。

 名前や意味を付与するのはこちら側の仕業だ。「猫」や「人」という生きものはいない。勝手にそういう類型に押し込めているだけだ。名前を剥奪してもそれら自身にはなんの影響もない。今まで通りあるがままにあるだけだ。

 「猫」や「人」だと判断するための色や形をそのようにあらしめているのもこちら側の仕業である。見ずに触れずに色や形は分からないが、感覚するということは刺激を理解可能な形式に変換するということである。外国語を自国語に翻訳して理解するのと同様である。その際に原文の音韻も表記もニュアンスも変換されてしまう。これが感覚の場合でも言える。分かるのは理解可能な形式に変換されたものだけである。変換前と完全に一致することはありえない。見ている色はそこに存在する色ではなくて理解可能な色だけなのである。ぼくが理解できないからと言って元々の色にはなんの影響もない。これも今まで通りあるがままにあるだけである。

 しかし理解不可能な色というのは実際にあるのだろうか。あると言うことはたやすい*1が、理解する主体は選べない。ぼくにはぼくしかいない。ぼくにとってぼくに理解不可能な色は存在しえない。主体をぼくに限ることを前提としているのだからそんな色はないと言える。変換前にどんな色をしていようが受け取った色しか世界の中にはないのだ。主体がぼくに限られているため、ぼく以外が感覚するぼく以外の世界というのもまたありえない。つまり「あるがままにある」ものたちは世界の中に入ってくることができない。

 自分についても同じことが言える。いくら自分の体だと言ったところで、肌の色や手の大きさなど他人を見るようにしか見ることができない。他人の体と違うのはその部位が感覚するというただその一点だけである。*2つまり自分の体と言えども感覚以外は他人の体同様、自分に理解可能な形式でしか存在していないのだ。

 ここまでくればこう言えるだろう。自分とは感覚である。そして感覚とは世界である。つまり世界とは自分のことである。理解不可能なあらゆるものに取り囲まれた中で理解可能なものだけの入室を許可する密室の世界にただひとり存在しているのがぼくである。

 絶対の孤独は常に在った。ぼく自身がそれであった。

*1:例えば、画家が識別できる色の数と素人の識別できる色の数は違うだろうことは容易に想像がつく。

*2:事故や病気などで完全に感覚が麻痺した体でもあくまで自分の体と呼ぶことがあるかもしれないが、それは単に習慣に付与された観念でありあくまで便宜的なものだろう。