日記6:虫のいい話

人類の精神を蝕む労働という名の合法ドラッグにまたしても手を染めてしまった。人間が精神と肉体とを併せ持つ生命体であると同時に生と死を乗せた方舟である限りにおいて、労働が適法状態にあるのはとんでもない異常事態であり非常に危険であることは論ずるまでもない。直ちに法律で禁止すべきである。ただし法律も禁止すべきである。そして禁止することも禁止すべきである。ところで、昭和日本にほうき星のように登場し「地上とは思い出ならずや」「此処にこうしていることが実は昔なのではないか」と喝破した、早すぎた弥勒*1イナガキタルホ大人の視座に立てば、人類の行く末もそれを考える人の脳髄にあらかじめ空想的に用意されたエンターテイメントのひとつでしかないことがわかる。それについて考えるのは前世で何かおびただしい悪行を為した業の深い人か或いはおそろしく暇な人かそのどちらかだけで充分だ。要するに個人的趣味の範疇を出ない。ディストピア世界の観察対象という興味以外に人類になんの関わりも持たないぼくがやることでもない。そんなわけで人類全体のではなくごく個人的な興味からこの労働依存を断ち切りたいとずっと思っているのだけど、また戻ってきてしまった。

しかしこのこと自体は問題ではない。依存状態にあることが問題なのだ。それでも昨年よりは中毒症状もややマシになってきて、月の半分くらいはだいたい寝て過ごしている。月が満ちてくると眠りながら月面うさぎと戯れ、月が欠けてくると地上で文字を追うような生活である。そんな中なぜか金銭的に年を越せないのではという懸念が発生していた。ぼくはこんなに社会的現実を無視しているのに向こうは一向に気づかない様子で迫ってくるので仕方なく短期バイトなどをやってみている次第だが、それについてはあと数回行けば終わりだ。ともかくこれで無事に年を越せそうだ。

行き当たりばったりのようでいて、そのわりに不安はない。近頃では生きていることと死んでいることの違いもよくわからなくなってきたので、大抵のことは「なんとかなるだろ」で済ましてしまっている。そして実際になんとかなっている。それはべつにいまに始まったことではない。不安がって未来のことを考えたところで人間も地球も太陽もぼくの考えた通りに動いてくれるわけではないのだから、行き当たりばったりなのは元からなのだ。違いがあるとすれば、起こってもいないことに頭を悩ますか、起こったことに対処するかの違いだけだろう。

あえて先のことを予測しないようにしていると、偶然性の矢*2が突き刺さることがある。とつぜん思い立って新しいことを始めるとか、まったく頭になかった方面から連絡がきて環境が激変するとか。クリスマスには右手を貰ってとても嬉しかった。ペン挿しとして使っているが、これも完全に想定外の出来事だった。小説とか映画とかストーリーを持つ創作物においては予測できないことがひとつの売りになっている。最初から最後まで予測した通りに事が終わるのなら、それはあえて読む必要のない小説であり*3、あえて生きる必要のない生である。そんなことは機械にでもやらせておけと思ってしまう。

そんなわけで、ぼくは思考の外、想像の外からやってくるなにかをいつも待っている。できることはなにもない。起こった出来事が待ち望んでいた矢だと思ったらそれを受け入れるだけだ。つまり「ぼくは何もしませんがどうにかしてぼくを満足させてくださいね」という幕末的*4な虫のいい話である。

*1:

弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/弥勒菩薩

*2:この矢はいわゆる恋のキューピッド的な化物から強奪され、後にスタンド使いたちの能力を開花させていったものでもある。

*3:あえて読む必要がないなどと言い切ってはみたものの、再読の愉しみを知らないわけではない。ぼくのように頭の弱いならず者においては再読する頃にはすっかり内容なんか覚えていないのだが、賢明な諸君においても初読と再読とではなにかしら違った風に読めるのではないかと思う。でなければその作品は二回も読む必要のない小説だったということになるだろう。

*4:

ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ええじゃないか