メモリ解放

 たとえば目の前に置かれた箱ティッシュも見えている面だけが世界の内側であり、見えていない面は世界の外側なのだった。見えていない面はほんとうにあるのか? 見てみなければわからない。見えていないだけだろ無いわけがない、と考えるのは当然の話だが、それはあくまで思考の上でのことであって、知覚的な理解ではありえない。知覚できないものはすべて虚像世界に属するのだ。

 普段の生活では虚像世界も実像世界もいっしょくたにして生きている。それで不自由ないと思っている。だけど、虚像世界が実像世界を凌駕してきているという実感がある。無いものに頭を悩ませるということだ。

「こうなったらこうしなくては」「これをするためにこれをしなくては」etc。

 これは知性だろうか? いやちがう。これは機械だ。

クリスタルメメント

 いま現代詩手帖に定期的に詩を投稿しているのだけど、投稿しないで残っているものがあるので、投稿しなかったものの保管所としてブログ*1をつくった。

 実のところ自分のスタイルがまだよくわかっていないから、それが固まるまでは続けたいなと思っている。

短歌の解説です。

 解説を希望されたのでキュバル氏(@16hu_)主催の第11回短詩会に投稿した短歌作品の一つを解説します。まず当該の短歌と選評を。

孤児院に並ぶぼやけたハピネスが古いえいえんのしるしでした
 
選:これって、冬らしい言葉出してないのに、12月のイメージが出ました。そういうの好きです。
選:作者による解説を希望して。   

解説

 孤児目線で読んでもらえると分かると思うんですが、ハピネスってちょっと遠い気がするんですよね。やっぱり自分のいる孤児院の外に本物があるような感じがして。でも施設にいる大人は「この日々が、ここにあるものがハピネスなんだよ」みたいな綺麗事を言う。だから子供たちは実感がわかないけどそうなのだと思い込む。思い込もうとする。実感がないからハピネスがぼやけてるわけですね。
 
 そしてあるとき、孤児院にある古い写真にその綺麗事を言った大人の若い時の姿や当時の他の孤児たちの姿が映っているのを見つけます(短歌では削りましたが彼は元々この施設で育った孤児でした)。自分が生まれてもない頃の写真なのに、その中の彼らが生き生きと動く姿を見たような気になって、その日々はもう書き換えることのできないもの、つまり「えいえん」になっていたことを知るわけです。
 
 それからふと気がついたのは、写真のなかに並んでるテーブルも椅子も絵本もいま自分が接しているものと同じものだったこと。現在目線ではそれらは実感のわかない「ぼやけたハピネス」に過ぎないけれど、「えいえん」化した写真の中では確かなハピネスに見える。
 
 つまり「ハピネス」は「えいえん」の中にあってその「しるし」が、まさに普段目にしているこの椅子やテーブルであり、ひいてはこの日々だったのだという事に気がつくという小さい子どもの短歌です。
 
 蛇足ですが「ぼやけた」というのは、実感がなくてぼやけているというのと時間的に隔たっているからぼやけているというののダブルミーニングです。完璧すぎる短歌ですね。

過去という悪霊

 過ぎたことをくよくよといつまでも悩んでしまうことがある。しかし悩みたくて悩んでいるわけではない。さっき送ったメールの返事がなかなか来ないからって「なにか気に障るようなことを書いてしまったんじゃ」なんて考えてもしょうがないことくらいわかっているのだ。心当たりのある人は時間を疑おう。教科書は『時は流れず』*1だ。ここには過去は制作された物語であるということが書いてある。

過去とは何か?

 昨日の夕飯を思い出しても、味はしないだろう。これは想起という体験が知覚ではないことを示している。「過去自体」はどこにも保存されていないし、もちろんそれを再生することもできない。想起している最中は想起内容に気をとられてうっかり認識を誤ってしまいがちだが、落ち着いて考えてみると、想起とは「どこかに実在する過去にアクセスして再現すること」ではなく「現在進行形で考える行為」だということがわかる。昨日の夕飯を視覚イメージとして思い出すことはできるだろう。しかし当然ながら視覚で知覚しているわけではない。「昨日の夜にカレーを食べた」という思考内容に付与する図解でしかない。つまり過去とは想起する際に思考的に現れる虚像なのである。

過去の制作

 虚像なのである。と言い切ったところで昨日カレーを食べた人にとって昨日カレーを食べたことは事実である。彼にとってまぎれもなく真実である。しかしそれはあくまで彼ひとりだけの真実であって公共的な真実ではない。「昨日は一緒にピザ食べたじゃん」と友人が彼に言ったとしたら第三者的にはそれだけで疑わしくなってくる。

 彼が確かにカレーを食べたということを証明するためには、証拠が必要だ。鍋に残りのカレーがまだあるだとか、食材を購入した際のスーパーのレシートだとか、そういったものの力を借りて彼は証明することができるだろう。さて、この際の証明とは何を意味するのだろうか。それは集まった証拠を基に過去の物語を「制作した」ということである。仮に彼が本当にピザは食べていないと(思っていると)しても、友人が証拠を集めて破綻のない過去物語を制作できるのならば、それは確かな過去として認められるのである。

 でも本当はカレーを食べたんでしょ? と疑う人は下記の引用を読んでください。

ある殺人者が自分の犯行を想起するときに、その現場の部屋のもようや 自分の恐れに揺れた気持ち、そして犠牲者の驚きの声や苦悶に歪んだ顔とい った知覚的情景がまざまざと浮かぶだろうし、それは忘れようとしても抑え がたい強迫力で迫ってくるだろう。しかしそれは知覚的図解にすぎないので ある。決して殺人の再現や二番煎じではない。知覚風景と違って、その情景 は細部を見つめたり声のふるえの細部に耳をそばだてることができないこと は、夢の想起と全く同様なのである。その部屋には全体が青緑色にみえるシ ャガールの複製があったことや、犠牲者の反抗の声に奇妙な抑揚があったこ と、これらは言語的にのみ想起されるのであって、知覚的図解をあらためて 注視することでわかるのではない。この図解の特徴は、それが思考(思い) の補助であって淡く薄れかけた知覚風景などではないゆえに、あらためて注 意したり注視したりすることはできないからである。このことは自分の夢想 起体験を反省してみれば誰にも納得がゆくことである。
(時は流れず/大森荘蔵青土社/1996.9.10)
 過去は、思い出す際に、証明する際に、言及される際に、その都度制作されていくのである。

利用方法

 これが真実です。とは言いません。大森荘蔵が本書で「過去自体」を否定する際に、カントの「物自体」を引き合いに出していましたが、ぼくはここで「真実自体」を否定します。「真実自体」などというものは何の意味も持ちません。生物は利用価値があるものを仮に真実だとして生きるだけです。ということは、上に記した内容も利用できなくては意味がない。少なくとも過去のふりをして取り憑く悪霊に塩を撒くために利用することはできると思います。だって過去はまだ制作されていないのだから。

おまけ

 この本は過去論だけじゃなくて、現在の異質性、「時の流れ」という錯誤、「主観 - 客観」の対置と意識の廃棄等おもしろい内容を含んでいます。ややこしいテーマを扱っている割に読みやすいので興味が出てきた人は読んでみるといいです。

*1:

時は流れず

時は流れず

 

 

永劫回帰

 たまに運命が見えることがある。ずっとその状態を維持できるなら悩むこともないのだろう。たぶん永劫回帰の思想を強烈に自分のものとして感じ続けられればそれは可能なのだと思う。覚えておこう。

 じつは簡単な話だった。詩で人生を台無しにしてやろうと決めてしまえばよかっただけだったのだ。いわゆる社会的な成功が得られなかったとしても、本気にさえなれればそれで成功だ。退屈からどうやって逃げるかだけが価値なのだ。他人の価値尺度はまったくもって問題にならない。ぼくがすべての価値を決めるのだ。

2001年の7月22日は日曜日でした。

 躁の終わりにはいつも思い出すことがある。二階堂奥歯のある日の日記の内容だ。*1

 あ、終わったんだ。って一瞬思ってしまったらそこからはもうごまかせなくなる。全身を覆い尽くしてしまう。マリオはもう無敵じゃないし、ユミちゃんは発作に見舞われる。ぼくはなんにもできない。ひたすら退屈な世界があるだけだ。

 労働がいのちをすごく無駄遣いしているように感じる。使い道を自分で決めて、そのためにすべてを注ぎこめなくては生きてたってしょうがないでしょ。生きてたってしょうがないんだよ。だから人生を台無しにして物語になろうとしている。

 ひとつの目的のためだけに生きるっていうただそれだけなんだけどなあ。それは目的以外をすべて犠牲にしてもよいという姿勢で生きることに等しいということは理解しているし、むしろ物語性を実感するためなら自分から何もかもを台無しにしてやりたいとさえ思っているのに、なにかを犠牲にするだけの価値を任意の目的に付与する力がまだ備わっていないのだ。どうしたらいい。正しさとか幸せとかそんなものは要らないんだよ。ことによったら自由でさえいらないのかもしれない。目的だけ自由に設定できるのであればあとの不自由はすべて物語の中だ。弟子たちにさえ行動を阻まれていた不自由のなかでも自説を唱え続けたフーリエの物語性には涙が出てくる。彼は世界を救おうとしていた。本気だった。本気で地上にユートピアをつくりだそうとしていた。ああいうことがやりたいのだ。

洗脳

 大森靖子さんのアルバム*1が届いていたので聴いている。タワレコの特典CDをiTunesに取り込んだら「Relaxation CD」とかいうタイトルをつけられてしまったあげくアーティスト名が「David Elam」となっていて何かの間違いかあるいは潜在意識をごにょごにょする系のサブリミナル的な音源かと疑ってかかったところ、中身はふつうにギターの弾き語りで数曲歌ってらっしゃった。まあそうですよね。

「呪いは水色」がやっぱりいいなあ。すごく好きだ。DVDは時間がある時にゆっくり観よう。

*1: 

洗脳 (CD+DVD) (TypeA)

洗脳 (CD+DVD) (TypeA)