演劇としての社会

 人間の世は演劇です。就職すると分かりやすい。上司と部下。いったん立場が定まってしまったら上司は上司らしく、部下は部下らしく振舞うようになる。スタンフォード監獄実験*1そのままです。被験者に内緒で実験に参加させているようなものです。とんでもない話ですね。

 会社だけではありません。家庭も学校もそう。その舞台を息苦しいと感じる人が家出をしたり不登校になったりニートになる。演技の苦手な人がコミュ障の自覚を持ちます。俗世間での人間関係は大部分「役」に依存してるんです。自分だと思ってる人格でさえそう。「自分はこういう人間だ」という自己イメージがすでにひとつの役になっている。人間が正直に生きようとすればそれすら脱ぎ捨てていかなければならない。

 「天上天下唯我独尊」という言葉があります。なぜか世間では曲解されていますが、決して悪い言葉ではありません。むしろ腕にでも彫って忘れないようにしたいくらいです。分かりやすく言い換えると「ぼくはぼくだけであり代わりはいないのだ」というほどの意味になります。これが本来の自分です。たとえば「A君の彼女」には代わりがいます。「B社の社員」には代わりがいます。そんなものをアイデンティティにしてはいけない。それらは外部の属性であり「役」でしかない。役に依存していると義務が増えてきます。やりたくないこともやらなくてはいけなくなる。「わたしがA君の彼女だ」という表現は一般的ですが、「わたし」=「A君の彼女」ではないので混同してはいけません。それは役なんです。いわば「わたし」が「<A君の彼女>という服」を着ているようなイメージです。どの服を着るかは自分で決めるんです。代わりのいない「わたし」として生きるんです。

 昨日好きだった人を明日は好きじゃないかもしれない。当然の話です。そんなの不誠実だとお思いの方、不誠実というのは好きじゃなくなったのに好きなふりして付き合い続けるあなたたち演技者のことです。ぼくは昔あんぱんがすごく好きでいつも食べていましたが、あまりに食べ過ぎたためか食べられなくなった時期がありました。同じです。きのうのぼくはもういません。「すごく好きだった」ことと「いまは食べられない」こと。どちらも本当のことです。それを「あんぱんが好きなぼく」の自己イメージを引きずって無理して食べようとすると演技になってしまう。嘘になってしまう。本当のことを実行するには舞台を降りないといけない。舞台を降りたところで付き合ってる恋人やら友人やらはきっと長続きすることでしょう。そういう人と巡り会えるのは素敵なことだと思います。

 生まれて間もなく「天上天下唯我独尊」などと口走った釈迦も、「自然に帰れ」のロマン主義も、ぼくが最近言い出した野良猫思想も、どれも似たようなものです。「正直に生きよう」と言っているだけなのです。野良猫思想はすべての演技から解放します。ぼくは正直に生きたい。

*1:

被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。

スタンフォード監獄実験 - Wikipedia

 

すべての書物を読んでしまった

自我は真理以上である。真理は自我の前には何でもない。

 このシュティルナーのことばを見た瞬間、憑き物が落ちたように読書という地獄から解放された。二十歳そこそこで読書の味を覚えてから約十年もの間、ほぼ毎日読書に時間を費やしていた。はじめはそうでもなかったのだけど、いつの頃からか意味のある読書にこだわるようになった。「あー楽しかった」というだけの読書では物足りなくなっていた。

 ぼくは知らず知らずのうちに「どうやって生きたらいいのか」「なにをするのが正解なのか」を求めていたのだと思う。だけどどの本にも求めていた正解はなかった。それらしいものはあったけど、どうもうまく扱えなかった。振り返るとどれも「色即是空」としか書かれてなかった。シュタイナーから見たらそうなんだろう、サルトルから見たらそうなんだろう、ニーチェから見たらそうなんだろう、バタイユから見たらそうなんだろう、もう全部これ。彼らの観念、彼らが見た<色>でしかない。それを理解したところで、もしくは理解できなかったところで、何が変わるだろう。すべて<空>である。内容なんかなんだってよかった。確かなことは、著者も登場人物もぼくとは違う存在であるということ。その大前提だけだった。つまり本から読み取れるのは「おまえはおまえの生き方を生きろ」ということでしかなかった。まだ読んでない本も、まだ書かれてない本でさえも、ぼくとは別の存在が書いている時点で同じことである。というわけで、ぼくはついに「すべての書物を読んでしまった」ことになる。

 そのあたりのことが冒頭のシュティルナーのことばでやっと自覚できたというわけだ。少し説明すると、<自我以前にはなにも存在できない。真理だろうが神だろうが自我があってはじめて成立するものである。自我が「認めて」はじめて成立する。自我がないところに真理などありはしない。他の何物もありはしない。自我がすべてである>。こんな感じである。

 これからは好きなことばを探すことはあっても、正解を求めて読むことはないだろう。意味を求めて読むことはないだろう。ぼくはやっと真理から解放された。

苦悩はすべて猫に弟子入りせよ

 我輩は猫の弟子である。名前はまだ捨てきれてない。猫にとって「ない」のはなにも名前だけではない。過去も未来もない。国家も道徳もない。宗教も戦争もない。自分自身の価値などを考えたこともない。「社会の役に立たなければ」だの「誰かに認められなければ」だのそんな観点がまずあり得ない。したがって自己について悩むこともまたない。労働もない。生活が立ちいかなくなるということもない。その上わざわざ家賃などを払って狭い家に住むなどということに至ってはまったく理解ができない。金など払わなくとも、そこらじゅう世界のすべてが自分の家であり、自分の遊び場であり、自分の墓場である。金を払うべき理由はどこにもない。払うべき相手も思いつかない。どこの恥知らずが当たり前のような顔をして金を受け取っているのだろう。だいたい自分がどこで生きようがどこで死のうが知ったことではない。ウロウロして出くわした相手が金持ちだろうが浮浪者だろうがどうでもよい。餌をくれるなら寄っていくだけであって、それがロボットでも化け物でも構わない。そもそも出会った相手を人間だのゴミ箱だのと区別することもない。すべては自分とそれ以外で事足りる。自分以外の一切が無である。生は享楽するものである。マックス・シュティルナーが「私の事柄を、無の上に、私はすえた」と言っている。辻潤は「私は自分の生命のままにただ生きる」と言っている。これらはまさに猫の生きざまである。社会という亡霊、他者という地獄に取り憑かれた人間はすべて猫に弟子入りすべきである。神もなく主人もない野良猫的ニヒリズムに陶酔すべきである。ぼくはぼく自身になりたい。

ウイルスちゃん

 まぶたの裏側をじっと見る。おそらくこれをやったことのある人はそれほどいないのではないかと思う。目を開く。見える。目を閉じる。見えない。本当でしょうか。では目を閉じて太陽を見上げましょう。まぶたの裏側が赤く見えていますね。目を閉じていても見えていますね。こんな簡単なトリックに誰もが引っかかっているのです。「目を閉じる」という言葉は日常言語であるわりに幾分比喩的な表現であって、ここにその錯覚の原因があるように思います。誰でも知っている当たり前のことをあえて書きますが、実際には目ではなくまぶたを閉じているのです。網膜に射し込む光を遮断しているのです。眼球を閉じることはできない。まぶたを閉じていても眼球はそこにある。至近距離でまぶたの裏側を見ている。

 光が遮断された状態では像は結ばれない。先ほどの実験では太陽という光度の高い光源によってまぶたの裏側が透けましたが、それほど強烈な光がない場合は何も見えません。というのもまた誤り。暗闇が見えているのです。だれも見向きもしない暗闇がそこにはあるのです。

 光の射さない黒目とまぶたの裏の関係性。ぼくはその暗闇を楽しむ。まぶたの内側はぼくだけの場所だ。

「まぶたの、
 外側でせかいは構築されるからね。」*1

 まぶたの内側から世界を覗いているぼくは世界の外にいる。最近は「世界の外にいるぼく」でいられる瞬間が増えてきている。

*1:暁方ミセイさんの処女詩集『ウイルスちゃん』収録「生物」より。

ウイルスちゃん

ウイルスちゃん

 

 

 走ることにした。気分屋(気分障害のかわいい言い方)なので突然です。就寝に失敗して夜更かししてしまったときのわけのわからないテンションで、「寝て起きたら外を走ろう」などと思いついて電気を消したのが午前4時。それから約一時間が経過した5時過ぎ、なんとそこには元気に走り出すぼくの姿が! 完全な躁状態。大変なことです。しかし主観的には楽しいのでよしとする。

 iPhoneからイヤホンを伸ばして、たらたら走った。BGMは五代目古今亭志ん生志ん生のおかげで気が紛れたのか、意外と疲れないもんだなと思った。とはいえ短い落語二席分、たかだか30分にも満たない時間だから当たり前なのかもしれないけど。

 コースは当初決めていた公園はやめて、通ったことのない道を選んだ。もうこの辺りに住んで丸四年経つけど、知らない道はずいぶんある。あえてこういうことをしないと同じ道ばっかり通ってしまうから、見慣れない景色が新鮮だった。

 何かを期待して走るわけじゃないけど、気持ちよかったからなるべく続けようと思う。(Bluetoothのイヤホンやらランニング用のシャツやらAmazonで買ってしまった。)

 鼻炎かな? と思っていたら風邪っぽくなった。昨晩かぜ薬と鼻炎薬をこれでもかというくらい投与したのだけど効果は感じられない。パブロンを飲むと眠りが浅くなる。そのせいで早く寝たわけでもないのに朝5時に目が覚めてしまった。朝から喉が痛い。そんな時間に起きても手持ち無沙汰だから本に手が伸びる。『変態性欲心理学』。とんでもないタイトルだ。しかし侮ってはいけない。かの大谷崎や大乱歩に衝撃を与えたという変態性欲界の古典である。本書をひもとくと変態のみなさんが八面六臂の活躍をしている姿が繰り返し現れる。一言で言えば変態さんの症例集なのだ。面白くないわけがない。フェティシズム、サディズム、マゾヒズムホモセクシャルペドフィリア等々が網羅されている上、さらに興味をそそるのが性に直接的には関わりのない精神病理、つまりうつ病だのヒステリーだのにまで言及してある。人間の隠された心理を愉しむにはうってつけの本である。

 そんな本を平日の朝っぱらから読んでいたら眠くなってきた。なので寝た。起きた。頭がぼーっとしている。こういうとき世界を外から覗いてる感覚になる。風邪をひくことにメリットがあるとすればこれくらいだろう。この状態のとき、普段自分だと思っている体は自己と分離している。その体がゲームのキャラクターのように感じる。責任のような重たいものをほとんど感じない。世界がふわふわしている。建物や机などのあらゆる角が心なしか丸くなっているようにも感じる。うっかりどこかに手足をぶつけたとしてもそんなに痛く感じないんじゃないかと思う。この視点を維持したいと考えているのだけどなかなか難しい。風邪は風邪としてちゃんと体調の悪さを感じているからもちろん楽なわけではないが、体調が良いときにこの視点でいられたら何でもできそうな気がする。

朝までの旅人

 ぼくはぼくが知っていることだけが世界だと思っている。生まれてから死ぬまでぼくはぼくが経験できることの中でしか生きられない。ぼくはぼくが感じること以外の何物も感じることはできない。当たり前ですが。

 天動説が当たり前だった時代の人にしてみれば、たしかに頭上の天球が動いていたのです。彼らにとって地動説なんか冗談の一種です。地面なんかが動いてたまるか。緯度、経度、国、住所がちゃんと定まっているんだ。「ローマは一日にしてならず」どころの話ではない。地面が動いていたらまず追いつかなくてはならない。そうしたら「ローマは永久に追いつかず」という話にもなってくるじゃないか。という考えの人もいたに違いありません。

 いま現在は地動説が主流のようですが、いつまたひっくり返るかわかりませんよ。ダークエネルギーが満ちた宇宙空間に地球などといういびつな球体が自転しながら浮遊していて、さらに太陽の周りを回っているなどという話を本当に信じているんですか。「おいおい寝て起きたら違う場所にいるのかよ」という感じで千年前なら完全におとぎ話ですよ。だからぼくは信じているんですけどね。ロマンがあるじゃないですか。人間の予想なんかはひとつ残らず裏切っていってほしいですね。実際のところ誰も本当のことなんか知りたくないんですよ。目の前の本当のことを誰も信じないでしょ。本当のことなんかより面白いことを求めているんです。寝て起きたら違う場所にいた方が面白いじゃないですか。ということは実際に違う場所にいるんですよ。そもそも自分と太陽の位置関係で朝だとか夜だとか言ってるだけですからね。地動説なんだから朝は「朝」っていう場所にいるんです。夜は「夜」っていう場所にいるんです。同じ場所にいて暗くなったり明るくなったりしている方がおかしい。天動説を信じてるわけじゃないならなおさら。朝が来るんじゃない。自分が行くんです。

 ぼくの知っている世界は概ねこのような設定で動いています。設定はぼくが決めることができます。言ってしまえばいわゆる観念だとか常識だとかそういうのが世界の設定です。ぼくが信じ切れる限り世界はそのようにあります。「自分はいま悲しい気持ちだ」と信じ切れるなら何もなくたって悲しいんです。なぜわざわざ悲しくなるのか。だって人間です。悲しい。

 ハロー、ぼくのことばが届く人。きみは選ばれた存在です。この文字を読むためにあらゆる条件をクリアしています。おめでとう。それ以外の人の世界にはこの文字列は存在しません。なんてね。地動説時代の狂人はこんなことを考えていたよ。いたんだよ。