苦悩はすべて猫に弟子入りせよ

 我輩は猫の弟子である。名前はまだ捨てきれてない。猫にとって「ない」のはなにも名前だけではない。過去も未来もない。国家も道徳もない。宗教も戦争もない。自分自身の価値などを考えたこともない。「社会の役に立たなければ」だの「誰かに認められなければ」だのそんな観点がまずあり得ない。したがって自己について悩むこともまたない。労働もない。生活が立ちいかなくなるということもない。その上わざわざ家賃などを払って狭い家に住むなどということに至ってはまったく理解ができない。金など払わなくとも、そこらじゅう世界のすべてが自分の家であり、自分の遊び場であり、自分の墓場である。金を払うべき理由はどこにもない。払うべき相手も思いつかない。どこの恥知らずが当たり前のような顔をして金を受け取っているのだろう。だいたい自分がどこで生きようがどこで死のうが知ったことではない。ウロウロして出くわした相手が金持ちだろうが浮浪者だろうがどうでもよい。餌をくれるなら寄っていくだけであって、それがロボットでも化け物でも構わない。そもそも出会った相手を人間だのゴミ箱だのと区別することもない。すべては自分とそれ以外で事足りる。自分以外の一切が無である。生は享楽するものである。マックス・シュティルナーが「私の事柄を、無の上に、私はすえた」と言っている。辻潤は「私は自分の生命のままにただ生きる」と言っている。これらはまさに猫の生きざまである。社会という亡霊、他者という地獄に取り憑かれた人間はすべて猫に弟子入りすべきである。神もなく主人もない野良猫的ニヒリズムに陶酔すべきである。ぼくはぼく自身になりたい。

ウイルスちゃん

 まぶたの裏側をじっと見る。おそらくこれをやったことのある人はそれほどいないのではないかと思う。目を開く。見える。目を閉じる。見えない。本当でしょうか。では目を閉じて太陽を見上げましょう。まぶたの裏側が赤く見えていますね。目を閉じていても見えていますね。こんな簡単なトリックに誰もが引っかかっているのです。「目を閉じる」という言葉は日常言語であるわりに幾分比喩的な表現であって、ここにその錯覚の原因があるように思います。誰でも知っている当たり前のことをあえて書きますが、実際には目ではなくまぶたを閉じているのです。網膜に射し込む光を遮断しているのです。眼球を閉じることはできない。まぶたを閉じていても眼球はそこにある。至近距離でまぶたの裏側を見ている。

 光が遮断された状態では像は結ばれない。先ほどの実験では太陽という光度の高い光源によってまぶたの裏側が透けましたが、それほど強烈な光がない場合は何も見えません。というのもまた誤り。暗闇が見えているのです。だれも見向きもしない暗闇がそこにはあるのです。

 光の射さない黒目とまぶたの裏の関係性。ぼくはその暗闇を楽しむ。まぶたの内側はぼくだけの場所だ。

「まぶたの、
 外側でせかいは構築されるからね。」*1

 まぶたの内側から世界を覗いているぼくは世界の外にいる。最近は「世界の外にいるぼく」でいられる瞬間が増えてきている。

*1:暁方ミセイさんの処女詩集『ウイルスちゃん』収録「生物」より。

ウイルスちゃん

ウイルスちゃん

 

 

 走ることにした。気分屋(気分障害のかわいい言い方)なので突然です。就寝に失敗して夜更かししてしまったときのわけのわからないテンションで、「寝て起きたら外を走ろう」などと思いついて電気を消したのが午前4時。それから約一時間が経過した5時過ぎ、なんとそこには元気に走り出すぼくの姿が! 完全な躁状態。大変なことです。しかし主観的には楽しいのでよしとする。

 iPhoneからイヤホンを伸ばして、たらたら走った。BGMは五代目古今亭志ん生志ん生のおかげで気が紛れたのか、意外と疲れないもんだなと思った。とはいえ短い落語二席分、たかだか30分にも満たない時間だから当たり前なのかもしれないけど。

 コースは当初決めていた公園はやめて、通ったことのない道を選んだ。もうこの辺りに住んで丸四年経つけど、知らない道はずいぶんある。あえてこういうことをしないと同じ道ばっかり通ってしまうから、見慣れない景色が新鮮だった。

 何かを期待して走るわけじゃないけど、気持ちよかったからなるべく続けようと思う。(Bluetoothのイヤホンやらランニング用のシャツやらAmazonで買ってしまった。)

 鼻炎かな? と思っていたら風邪っぽくなった。昨晩かぜ薬と鼻炎薬をこれでもかというくらい投与したのだけど効果は感じられない。パブロンを飲むと眠りが浅くなる。そのせいで早く寝たわけでもないのに朝5時に目が覚めてしまった。朝から喉が痛い。そんな時間に起きても手持ち無沙汰だから本に手が伸びる。『変態性欲心理学』。とんでもないタイトルだ。しかし侮ってはいけない。かの大谷崎や大乱歩に衝撃を与えたという変態性欲界の古典である。本書をひもとくと変態のみなさんが八面六臂の活躍をしている姿が繰り返し現れる。一言で言えば変態さんの症例集なのだ。面白くないわけがない。フェティシズム、サディズム、マゾヒズムホモセクシャルペドフィリア等々が網羅されている上、さらに興味をそそるのが性に直接的には関わりのない精神病理、つまりうつ病だのヒステリーだのにまで言及してある。人間の隠された心理を愉しむにはうってつけの本である。

 そんな本を平日の朝っぱらから読んでいたら眠くなってきた。なので寝た。起きた。頭がぼーっとしている。こういうとき世界を外から覗いてる感覚になる。風邪をひくことにメリットがあるとすればこれくらいだろう。この状態のとき、普段自分だと思っている体は自己と分離している。その体がゲームのキャラクターのように感じる。責任のような重たいものをほとんど感じない。世界がふわふわしている。建物や机などのあらゆる角が心なしか丸くなっているようにも感じる。うっかりどこかに手足をぶつけたとしてもそんなに痛く感じないんじゃないかと思う。この視点を維持したいと考えているのだけどなかなか難しい。風邪は風邪としてちゃんと体調の悪さを感じているからもちろん楽なわけではないが、体調が良いときにこの視点でいられたら何でもできそうな気がする。

朝までの旅人

 ぼくはぼくが知っていることだけが世界だと思っている。生まれてから死ぬまでぼくはぼくが経験できることの中でしか生きられない。ぼくはぼくが感じること以外の何物も感じることはできない。当たり前ですが。

 天動説が当たり前だった時代の人にしてみれば、たしかに頭上の天球が動いていたのです。彼らにとって地動説なんか冗談の一種です。地面なんかが動いてたまるか。緯度、経度、国、住所がちゃんと定まっているんだ。「ローマは一日にしてならず」どころの話ではない。地面が動いていたらまず追いつかなくてはならない。そうしたら「ローマは永久に追いつかず」という話にもなってくるじゃないか。という考えの人もいたに違いありません。

 いま現在は地動説が主流のようですが、いつまたひっくり返るかわかりませんよ。ダークエネルギーが満ちた宇宙空間に地球などといういびつな球体が自転しながら浮遊していて、さらに太陽の周りを回っているなどという話を本当に信じているんですか。「おいおい寝て起きたら違う場所にいるのかよ」という感じで千年前なら完全におとぎ話ですよ。だからぼくは信じているんですけどね。ロマンがあるじゃないですか。人間の予想なんかはひとつ残らず裏切っていってほしいですね。実際のところ誰も本当のことなんか知りたくないんですよ。目の前の本当のことを誰も信じないでしょ。本当のことなんかより面白いことを求めているんです。寝て起きたら違う場所にいた方が面白いじゃないですか。ということは実際に違う場所にいるんですよ。そもそも自分と太陽の位置関係で朝だとか夜だとか言ってるだけですからね。地動説なんだから朝は「朝」っていう場所にいるんです。夜は「夜」っていう場所にいるんです。同じ場所にいて暗くなったり明るくなったりしている方がおかしい。天動説を信じてるわけじゃないならなおさら。朝が来るんじゃない。自分が行くんです。

 ぼくの知っている世界は概ねこのような設定で動いています。設定はぼくが決めることができます。言ってしまえばいわゆる観念だとか常識だとかそういうのが世界の設定です。ぼくが信じ切れる限り世界はそのようにあります。「自分はいま悲しい気持ちだ」と信じ切れるなら何もなくたって悲しいんです。なぜわざわざ悲しくなるのか。だって人間です。悲しい。

 ハロー、ぼくのことばが届く人。きみは選ばれた存在です。この文字を読むためにあらゆる条件をクリアしています。おめでとう。それ以外の人の世界にはこの文字列は存在しません。なんてね。地動説時代の狂人はこんなことを考えていたよ。いたんだよ。

汝の泥棒を愛せよ

 船っていいなあと思う。水の上をぷかぷか揺れている姿のあどけなさ。近くに寄ってこられたらちょっと遠慮するけど、沖の方で小さくなっている姿はいかにも牧歌的で平和そのもの。
 船の上にいるニワトリはもっといいなあと思う。いま自分は途方もない海の上にいるんだということを知らないで平気そうな顔をしている。人間たちが当たり前だと思っていることを、こいつは何も気にしない。だから何を目撃しても動じない。何を聞かれても聞こえないふりをしてやり過ごす。理解していないだけ、という意見はごもっともなのだが、ニワトリに意見をうかがう人間の方もなかなかのものだ。
 そんなわけでニワトリに話しかける泥棒っていいなあと思う。「おまえ見てただろう」なんて問い詰めて、もしニワトリが人間の言葉でしゃべりだしたらどうするつもりなのか。


 この船上に漂うどこか滑稽なフィクション性は愛すべきものだと思うのだけど、現実感をもった時点でそれもすべて台なしとなる。よいと思えるのは遠く離れているときだけだ。遠くの出来事は目をそらすだけでまるごと全部なかったことにできる。要するに大事なのは距離感なのだ。二千年の昔から「汝の隣人を愛せよ」などという言葉が残っているのは、それが非常に難しいことだからだ。近くの他人より遠くの泥棒である。まずは泥棒を愛せよ。汝の泥棒を愛せよ。

 仮にぼくがこの船に乗ったとしたら、船酔いはするわ屈強な海の男がむさ苦しいわで、どこか涼しい隅の方でぐったり横たわっていることだろう。そのうちニワトリも床と人間との区別がつかなくなってぼくの顔を踏みつけて渡るだろう。泥棒はもともとニワトリと人間の区別がついていないからぼくをニワトリだと思って話しかけるだろう。「半分やるから見たことは黙っててくれ」と言われたところでしゃべる気力すらない。こんなことは考えるだけで嫌だ。

 しかしぼくは彼らにとって完全に上位世界の存在である。彼らが存在する世界まるごとぼくがたったいま作ったのである。だから泥棒がなぜわざわざ逃げ出すことのできない船の上で盗みを働いたのか、その理由だってぼくは知っている。実のところ彼は船上で唯一のぼくの友人なのであって、ぐったりしているぼくのためにだれかの荷物から酔い止めの薬を盗み出してきたのであって、「半分やるから」などという言葉がじつは照れ隠しだったなんてことでさえぼくははじめから知っていたのだ。それでもぼくはあくまで上位世界の存在なのであって、話が終わったら帰らなくてはならない。ああ、泥棒から贈られる薬はさよならみたいな味がしますね。

ロマンスの神様

 どうやったらこの暑さの中で雪女を保護できるだろうか。個人的には夏はわけもなく好きなのだ。だけど思うのは雪女のことである。彼女は生き延びねばならない。巷では夏は怪談の季節ということになっている。科学的根拠だの論理的整合性だのを殊のほか気にする人間たちが暑さにやられて頭が弱りだしている間に楽しむのが怪談というわけだ。雪女としても怪談というカテゴリからはみ出しているつもりはないだろう。しかし雪女は冬の季語なのだ。夏ではない。

 弱体化してしまっている夏に登場するのは雪女としても不本意だろう。そりゃコンビニでアイスも買ってしまうだろう。やたらフレンドリーな店員に「手が冷たいですね」「冷え症なんです」なんて心にもない会話までさせられて、それでアイスを買ったはいいけど外は暑くて出られないので適当な本を立ち読みなんかしてるとまたさっきの店員が話しかけてきてつらい。「こんな暑いなか仕事なんかしてられるか」という気持ちもあるが、ビデオカメラに映り込むのが得意な若造どもの活躍ぶりが各種メディアから飛び込んできて劣等感に苛まれる。広瀬香美の歌を聴いて「目立つにはどうしたらいいの」なんて歌詞に共感してみたり、「わたしだって冬が来れば……!」などと言ってなんとか夏を耐え忍ぶということも飽きるほど経験しているが、いざ冬になると人間たちの頭から怪談なんてものはすでに消え去っていて、ということはつまり語られる側は存在できないということだから、結局活躍することはできない。それならつらい夏が来る前に死んでしまおうかと思ったことも一度や二度ではないが、踏ん切りがつかないまま今年もまた暑くなってしまった。そんなことを考えてたらすっかりメンタルがやられてしまって、ここ最近ついに精神科の世話になったとかならないとか。

 ここまで書けばわかったでしょうか。

どうやったらこの暑さの中で雪女を保護できるだろうか。」

 この一文がすでに詩でありました。