神様は見てるよ

 植田真梨恵さんのことばかり考えてしまう。いま一番興味のある女性シンガーソングライターです。去年メジャーデビューしたらしい。

 シンガーソングライターって好きになる観点がいくつかあって、歌メロだったり歌い方だったり歌詞だったり声だったり。その辺りの観点を基準にぼくがある歌手を好きになるパターンをちょっと書いてみる。

 歌メロは聴くきっかけになりやすい。けど、その人に固有のモノではないので、その曲が好きになることはあっても、まだその歌手を好きになるところまではいかない。

 歌い方は上手いとか下手とかでは全然聴いていなくて、感情が乗っている感じがすればぼくにとっては魅力的。歌い方がグッとくる感じだったら、歌詞にもリアリティーを感じることが多くて心に残る。この辺りでその歌手に興味が湧きます。

 歌詞はわりと気にする。歌詞が良くないと思ったら歌メロまで色褪せてきてしまう。途端に興味がなくなってしまう。

 最後に声。これはまさにその人に固有のモノであって、好きになってしまったらずっと好きなんだと思う。でもわりと融通が利く点でもある。というのもはじめは変な声だなと思ってても聴いている内に慣れてくるから、声が好みじゃなくても好きになることがある。

 そんな感じなのだけど、声が好きだってなったのは今まで清春さんひとりだけだった。そこに植田真梨恵さんが入りそう。youtubeで聴いてるばっかりなので歌詞はそんなに知らないけど、言葉の選び方もわりと好きそうな気がする。歌メロと歌い方は好き。「心と体」の振り絞る感じも「ザクロの実」の繊細な感じも良い。かなり興味がある。早くCDほしい。

 


植田真梨恵「未完成品」PV - YouTube


植田真梨恵「心と体」PV - YouTube


植田真梨恵「ザクロの実」PV - YouTube

クローゼットダーリン

 クローゼットに彼氏を入れていけないという決まりはないので、とりあえず入れておく。翌日、洋服を選ぼうとするとそこに彼氏がいて、だけど今日はそういう気分じゃないから一人で出かけることにする。みたいな人が意外と居るのが上流社会なわけですが、土台はすべてmoneyでしょうね。円だかドルだかユーロだか知らないけれど、金銭がいくらあろうと自分で何かしないと退屈なものは退屈だろうと思います。だからクローゼットに入れる彼氏も一人じゃ全然足りなくて、天才子役から元首相まであらゆる彼氏を揃えておかなくてはいけない。という母親の差し金があってクローゼットがいっぱいになっている年頃の娘が「どうしてあたしの部屋に知らない男をこんなにたくさんいれてなきゃいけないわけ!?」とついに当然すぎる反抗を見せ、そこで遅ればせながら娘の部屋に男がたくさん潜んでいることを知った父親が激怒して街に放たれた野良彼氏の群れが行き場をなくしてうろついているのを不審者として通報されてしまったのだけど、そこは世間の目を異常に気にする母親の選んだ男だけあって、容姿も能力も家柄も人並み以上どころではない彼ら。なんだかんだで安定した生活を取り戻したかと思えば、オリンピックに出る者、長者番付に載る者、ノーベル賞を取る者などなどそれぞれが一定以上の成功を収めていた。

 一方あれ以来家出をしていた娘は、友人の家を転々としていた。親がただならない金持ちだけあって子供のうちからとんでもない残高の銀行口座を自分用として与えられ、自由に使っていいことになっていたのだが、一人でホテルに泊まってるよりも友人と遊び歩きたいというのが若者の素直な気持ちなのであって、親の監視の目も金銭の不自由もない彼女にしたら当然の選択だった。ただし泊まらせる側の娘はそのどちらもあったので毎日彼女に付き合うというわけにはいかなかった。そんなわけで「あたしはみんなとは違うんだ」という一抹の寂しさを感じずにはいられず、それをごまかすように過去のクローゼット彼氏たちを憎んでいるうちに立派な男嫌いに育っており、テレビやインターネットなどで彼らの姿、彼らの名前を目にするたびに生理的嫌悪感を催している。

 そんなある日やっとのことで娘の居場所を突き止めた母親が、今一番世間的に輝いている元クローゼット彼氏のサッカー選手を連れて、彼女が泊まっている友人の家に乗り込んできた。「栄ちゃん、ママよ! 栄ちゃんにぴったりの彼氏連れてきたわよ!」などと大声を上げる母親の声とドアを乱暴に開ける音が聞こえる。

「栄子、お母さん来ちゃったよ、どうする?」「とりあえずクローゼットしかないでしょ」

 娘はクローゼットに入りながら友人までそこに引っ張り込んだ。クローゼットの中にいても「栄ちゃん、ママよー! 出てきてちょうだい!」などと聞こえてきて、恥ずかしいのと友人に申し訳ないのと母親への反発心とが狭いクローゼット内の息苦しさと混ざり合って、ある気持ちが芽生えた。男なんかより女の子のほうがいいに決まってる。

「桜子、あたしをクローゼットで飼って」

10月60℃説

 本日の最高気温30℃(東京)。誰のせいでこんなに暑いのかしらないけれど、「寒いのよりはマシ」というマントラを唱えながら一日を過ごしています。5月で30℃なので10月には60℃くらいになってしまうなと言ったら馬鹿にされるでしょうが、たかだか100年かそこらの気象観測データしか持っていない人間風情がどうしてそうならないと断言できるのでしょうか。つい7億年前には地球全体が完全に氷で覆われていたのです。そんなことになったのも驚きですが、そこから今のような状態になったのも驚きです。常識はいつの時代も覆されるのを待っているのです。
 近所の小学生に10月60℃説を真剣な面持ちで吹聴すると、ちゃんと理解を示してくれます。偏見のコレクションで堅苦しい考えしか持てない大人たちなんかにはないアイデアが出てきます。なんのアイデアかというと、60℃になってもつらくない環境づくりだったり、適正の気温に戻るまでコールドスリープする技術だったり、いっそのこと人類の歴史を終わらそうか?といったようないろいろです。いま判明している地球の環境変化の歴史だけでもとてつもないスケールの変動があります。自分の狭苦しい常識からちょっとでも外れたことが起こるとすぐ異常気象だ、天変地異だ、といって騒ぐ視野狭窄どもには一度落ち着いて自分が地球の一部であることを認識していただきたいものです。地球の一部であるわけのわからない液体から這い出してきた生物の子孫であるみなさんは死んで再び地球になるのです。

 むかし流行ったノストラダムスの悪ふざけだって結構な経済効果を発揮したのだから、ぼくの悪ふざけだってみなさんが本気を出せばわりと貨幣の流動性を刺激できるのではないかと思います。それに向こうはただのうわごとでしたが、こっちは説明すれば小学生でも理解できる程度の数学を根拠にしているのです。5:30=10:x。

 そんなわけで、なにも考えずに文章を書くとこうなります、という例でした。なお近所の小学生は架空の人物です。

本日のハッピーエンド

 ハッピーエンドは毎日やってくる。終わることがハッピーだからだ。恋人ができてハッピーになるのは恋人探しが終わったからだ。内定が出てハッピーになるのは就活が終わったからだ。同じことで憂鬱になるのは社員生活の始まりを見ているからだ。終わりを見なくてはならない。一続きの過程を収束させることで人は安心する。一つ一つの区切りが細かい方が単純に多く安堵できる。大したことでもないのにいちいち喜べる人はそれがうまいのだ。そういう人ほどしあわせそうに見える。そんなわけで目先の目標は低ければ低いほど良い。安心感のなかでハピネスは育っていくのです。

 一日は二十四時間である。というのは思い込みだ。人間の勝手な決めつけに過ぎない。だが慣習は都合よく利用すべきだ。この世のすべてはきみが利用するためにあります。ぼくが利用するためにあります。

 そんなわけで今日はもう終わり。明日のことは考えない。明日に気を取られて本日のハッピーエンドを見逃さないように。おやすみなさい。

金子千佳『遅刻者』

 金子千佳『遅刻者』*1を読んだ。

 二階堂奥歯がかなり好意的に書いていたので、内実もよく知らずに過剰な期待をもって読んだのだけれど、率直に言ってよくわからなかった。ただ一遍、「遅刻届」、これは二階堂奥歯が引用していた詩でもあるのだけれど、これだけは連れて行かれるような心地よさがあった。終盤に良さが際立っているので引用する。最後二行の美しさはめったに見れるものではない。

あなたへとほどけ  とかれてゆく
                        いきをひそめて
やがて再び語られてゆくあなたのことば
     記されてゆくことばとともに
立ち現れるわたしのかずかず
             いくにんものわたしが
                       踏み迷い
                       探し出されてゆくだろう
あなたの場所
あなたの言葉のなかに——
             こくなってゆく
             このわたしたちの時刻
             カノンが聞こえる。
             パッヘルベル
             もう、帰れない
             帰れなかった
             だれも
             だれひとり
             ここで。
うすらいでゆく影を片足ずつはずし
あなたへの遅刻届を
いつまでもしたためている。

(「遅刻届」『遅刻者』/金子千佳/思潮社/1987.11.7)

 いるはずのない「あなた」に向けて、絶対に届かないことを知りながらしたためられる遅刻届のなんとうつくしいこと!

 ここでしたためている「わたし」はあえて書くなら「存在者」であって、存在するものはやがて死を経て「あなた(=不在者)」に追いつくことができる*2。存在とはつねに不在に遅刻している状態なのである。そういう風に読めた。

*1:

遅刻者

遅刻者

 

 

*2:もちろん「追いつく」といったところでそこには追いつくべき対象は存在しないのだけれど。

山尾悠子インタビュー 京都新聞

 山尾悠子さんのインタビュー記事*1を発見した。新作があること自体がいまだに奇跡みたいに思えるなか、こうやって彼女のことばが聞けるのはありがたいことです。

「架空世界を描く幻想小説を拒否する編集者もいた。私の小説はSFでは場違いではないか、現代詩から出発していればと思っていた」と話す。

独自の小宇宙、創造続けて 作家・山尾悠子さん : 京都新聞

  たしかにSFというジャンルに括られるには無理があると思うけど、現代詩という発想があったとは思わなかった。それでも現代詩として発表されていてもそれはそれでそぐわない。詩というよりはやっぱり小説だ。はじめて彼女の作品を読んだ時の異様な雰囲気はジャンルどころか前例のない驚きを感じたものだ。完全に世界が創出されていてしかもそれが美しいとなるとため息しか出ない。

 山尾さんに限らず、固有性・唯一性を強く感じるような作品が読みたいなあと思う。商業的には扱いづらいのかもしれないけど。

 言及されていたデルボーという画家は聞いたことなかったけど、不気味で素敵ですね。*2

*1:

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150102000012

*2:このまとめの中だと上から二番目の骸骨が数人部屋に集まってる絵が好き。


#909 ポール・デルボー絵画作品集 - NAVER まとめ