本日のハッピーエンド
ハッピーエンドは毎日やってくる。終わることがハッピーだからだ。恋人ができてハッピーになるのは恋人探しが終わったからだ。内定が出てハッピーになるのは就活が終わったからだ。同じことで憂鬱になるのは社員生活の始まりを見ているからだ。終わりを見なくてはならない。一続きの過程を収束させることで人は安心する。一つ一つの区切りが細かい方が単純に多く安堵できる。大したことでもないのにいちいち喜べる人はそれがうまいのだ。そういう人ほどしあわせそうに見える。そんなわけで目先の目標は低ければ低いほど良い。安心感のなかでハピネスは育っていくのです。
一日は二十四時間である。というのは思い込みだ。人間の勝手な決めつけに過ぎない。だが慣習は都合よく利用すべきだ。この世のすべてはきみが利用するためにあります。ぼくが利用するためにあります。
そんなわけで今日はもう終わり。明日のことは考えない。明日に気を取られて本日のハッピーエンドを見逃さないように。おやすみなさい。
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難しく考えすぎていたのかもしれない。書きたいことを書ければそれでぼくは満足なんだ。
金子千佳『遅刻者』
金子千佳『遅刻者』*1を読んだ。
二階堂奥歯がかなり好意的に書いていたので、内実もよく知らずに過剰な期待をもって読んだのだけれど、率直に言ってよくわからなかった。ただ一遍、「遅刻届」、これは二階堂奥歯が引用していた詩でもあるのだけれど、これだけは連れて行かれるような心地よさがあった。終盤に良さが際立っているので引用する。最後二行の美しさはめったに見れるものではない。
あなたへとほどけ とかれてゆく
いきをひそめて
やがて再び語られてゆくあなたのことば
記されてゆくことばとともに
立ち現れるわたしのかずかず
いくにんものわたしが
踏み迷い
探し出されてゆくだろう
あなたの場所
あなたの言葉のなかに——
こくなってゆく
このわたしたちの時刻
カノンが聞こえる。
パッヘルベル
もう、帰れない
帰れなかった
だれも
だれひとり
ここで。
うすらいでゆく影を片足ずつはずし
あなたへの遅刻届を
いつまでもしたためている。
(「遅刻届」/『遅刻者』/金子千佳/思潮社/1987.11.7)
いるはずのない「あなた」に向けて、絶対に届かないことを知りながらしたためられる遅刻届のなんとうつくしいこと!
ここでしたためている「わたし」はあえて書くなら「存在者」であって、存在するものはやがて死を経て「あなた(=不在者)」に追いつくことができる*2。存在とはつねに不在に遅刻している状態なのである。そういう風に読めた。
山尾悠子インタビュー 京都新聞
山尾悠子さんのインタビュー記事*1を発見した。新作があること自体がいまだに奇跡みたいに思えるなか、こうやって彼女のことばが聞けるのはありがたいことです。
「架空世界を描く幻想小説を拒否する編集者もいた。私の小説はSFでは場違いではないか、現代詩から出発していればと思っていた」と話す。
たしかにSFというジャンルに括られるには無理があると思うけど、現代詩という発想があったとは思わなかった。それでも現代詩として発表されていてもそれはそれでそぐわない。詩というよりはやっぱり小説だ。はじめて彼女の作品を読んだ時の異様な雰囲気はジャンルどころか前例のない驚きを感じたものだ。完全に世界が創出されていてしかもそれが美しいとなるとため息しか出ない。
山尾さんに限らず、固有性・唯一性を強く感じるような作品が読みたいなあと思う。商業的には扱いづらいのかもしれないけど。
言及されていたデルボーという画家は聞いたことなかったけど、不気味で素敵ですね。*2
*1:
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150102000012
*2:このまとめの中だと上から二番目の骸骨が数人部屋に集まってる絵が好き。
メモリ解放
たとえば目の前に置かれた箱ティッシュも見えている面だけが世界の内側であり、見えていない面は世界の外側なのだった。見えていない面はほんとうにあるのか? 見てみなければわからない。見えていないだけだろ無いわけがない、と考えるのは当然の話だが、それはあくまで思考の上でのことであって、知覚的な理解ではありえない。知覚できないものはすべて虚像世界に属するのだ。
普段の生活では虚像世界も実像世界もいっしょくたにして生きている。それで不自由ないと思っている。だけど、虚像世界が実像世界を凌駕してきているという実感がある。無いものに頭を悩ませるということだ。
「こうなったらこうしなくては」「これをするためにこれをしなくては」etc。
これは知性だろうか? いやちがう。これは機械だ。
短歌の解説です。
解説を希望されたのでキュバル氏(@16hu_)主催の第11回短詩会に投稿した短歌作品の一つを解説します。まず当該の短歌と選評を。
孤児院に並ぶぼやけたハピネスが古いえいえんのしるしでした
選:これって、冬らしい言葉出してないのに、12月のイメージが出ました。そういうの好きです。
選:作者による解説を希望して。
解説
孤児目線で読んでもらえると分かると思うんですが、ハピネスってちょっと遠い気がするんですよね。やっぱり自分のいる孤児院の外に本物があるような感じがして。でも施設にいる大人は「この日々が、ここにあるものがハピネスなんだよ」みたいな綺麗事を言う。だから子供たちは実感がわかないけどそうなのだと思い込む。思い込もうとする。実感がないからハピネスがぼやけてるわけですね。
そしてあるとき、孤児院にある古い写真にその綺麗事を言った大人の若い時の姿や当時の他の孤児たちの姿が映っているのを見つけます(短歌では削りましたが彼は元々この施設で育った孤児でした)。自分が生まれてもない頃の写真なのに、その中の彼らが生き生きと動く姿を見たような気になって、その日々はもう書き換えることのできないもの、つまり「えいえん」になっていたことを知るわけです。
それからふと気がついたのは、写真のなかに並んでるテーブルも椅子も絵本もいま自分が接しているものと同じものだったこと。現在目線ではそれらは実感のわかない「ぼやけたハピネス」に過ぎないけれど、「えいえん」化した写真の中では確かなハピネスに見える。
つまり「ハピネス」は「えいえん」の中にあってその「しるし」が、まさに普段目にしているこの椅子やテーブルであり、ひいてはこの日々だったのだという事に気がつくという小さい子どもの短歌です。
蛇足ですが「ぼやけた」というのは、実感がなくてぼやけているというのと時間的に隔たっているからぼやけているというののダブルミーニングです。完璧すぎる短歌ですね。