日々思う人

日記を書き続けられる人って、生きている人なんだなあって思った。

ぼくは何度も続けようと思ったけどその度挫折して続けられなかった。生涯書き続ける人だっているのにぼくはできなかった。過去形なのはこれからはそうならないといいなって願うからだ。そうするためにはどうすれば続けられるか考えなくてはならない。漫然と意志の力に頼るのでは同じことだ。それ以前にぼくの考えに反する。「いかなる良心にも期待してはならない」のだ。何の報酬も与えずに未来のぼくの良心に期待をするのは無謀なことだ。

ぼくが続けられなかったのはそもそも書くことがないせいだ。でもそれは嘘だということに薄々感づいている。それは実感としては正しいのだけど、本当は書くことを見つけていないだけではないのかなと思う。学生のときも学校に行っても授業を受けただけだし書くことなんてないって思っていたのに、いま考えると授業の合間に休み時間はあるし部活だってあった。文化祭や体育祭などもあったし、放課後や休みの日にだって全く遊ばなかったわけじゃない。それなのに書くことがないと思っていたのは、ぼくが実質その時間に生きていなかったからではないのだろうか。つまり無感動に時間を過ごしていたのだ。それがずいぶん助長されていまの生活につながる。これではいけない。まわりにたくさんあるはずの書くことが、ぼくの能力欠如のせいですべて流れていってしまう。

思えば感想だって考えようとしなければ何も浮かばないのだ。せめて感想くらいは自然に表明できてほしいと思う。いま本を読んだ後に感想をつけることを義務づけているのだけど、一生懸命考えてやっと感想っぽいものができるという感じで、どうも不自然だ。というか厳密には感想と言わないような気がする。読んでどう思ったかっていうシンプルなものを残したいのに、そういうのがぼくは書けない。

日記だって言ってしまえば日々何を思ったかの記録だ。接するものにいちいち感想を持てたら日記も続けられるだろうと思う。何もしていなくたって「思う」ことはできるのだから。そのためにはいろいろなものに目を向けて認識するようにすれば良いのだろう。何となく過ごすのではなくて。

なんて考えるだけで大変そうだなあ。無理をせず、嫌なことからは目をそらそう。きれいなものだけ見てれば続けられるかもしれないし。ぼくが見上げるときくらいは空もきれいでいてくれるはずだし。って空を見て感じる一日って想像するとなんだか素敵。映画みたい。