ピアスを開けた話

 意味もドラマもないけれどまたピアスを開けた。十代のとき以来だ。当時は耳、唇、舌ぜんぶで6つほど開いていて、就職したタイミングで舌以外のぜんぶを外した。残ったセンタータンはずっと開いたままだった。ピアスをまた開けようという気持ちはそれ以来ずっとなかったのだけど、6月頭に精神的な論理破綻が到来して、そのときにまた開けようかなという気持ちが芽生えた。自分でも意外だった。

 Googleで検索するとあっけなくよさげな画像が見つかった。センタータンが開いていてタンエッジにキャプティブビーズリングが右側に2つ並んでいる画像だった。一目でこれだと思った。センターはもう開いているから、タンエッジ二箇所を開けるだけだ。


 去年までひものような生活をしていて、でもそれでは全然自由を感じることはできなかった。金の観念を強めた結果に終わったように思う。
 そしてまた雇用されることにした。しかしそれは諦めて生きるということではさらさらなく、生きているだけで課される負債を雇用労働に依存することなく自分でなんとかするための、その足がかりとしての資金集めを目的としたものだった。だから十分に資金が溜まったら雇用されることを自分自身に禁止しようと考えていた。

 ぼくは雇用されつつもあくまで自分のルールを実践しようと思っていた。自分の生を雇用主に貸し出しているわけではないのだから当然のことだ。些細なことだけれど、取引先との関係性をビジネスとかいう不愉快なゲームからわざと外れて個人対個人の自然なやりとりに変容させてみたり、既存の無駄なルールを無視して必要だと思えることだけをやってみたりということを実践していた。

 そうするとなぜか社内評価が上がってしまったが、評価が上がるとやらされることが増えるというだけの話で、そんなものは当然ながら求めていない。なので仕事を断ることも増えた。突然休んだりもした。不要な評価は下げていかなければならない。なにを得るためにそこにいるのか? 金だ。評価は金でしか受け付けないよという話だ。

 そんなことをやっているうちに時間はどんどん過ぎていき、しかし資金は一向に貯まらない。ここで「貯めるために頑張る」という死に至る考え方があるのだが、落ち着いて考えてみる。資金が貯まらないのは手段が間違っているからであって、努力などはまるで関係がない。努力が必要とされる時点で手段が間違っていると考えるべきだ。ぼくが観測した限りでは「現状と結果との間に有効な手段を見つけられない時に無理やり望む結果に近づける馬鹿なやり方」のことを世間では「努力」と言っているように見受けられた。持続可能性がどうとかいうレベルですらなく、努力が必要とされた時点でその活動は100パーセント無駄だと思う。有効な手段を見つけるか諦めるかどちらかにするべきじゃないか。個人的には有効な手段が見つからない場合その目的設定が間違っているので諦めるのがいいんじゃないかと思う。諦めるといっても「いまやることじゃない」という程度の話で、またやる気になったときにやればいいのだ(その後やる気にならなかったらやる機会は失われてしまうがやる気もないのにやらなくてはいけないと思い込んでしまうとたいへんな無理が生じるので諦めて正解ということになる)。

 そんなわけで「貯めるために頑張る」という選択肢はありえないので、ひとまず辞めてみることにした。決めてしまうと気が楽になったので晴れ晴れとした気持ちでタンエッジにピアスを2個開けた。傷が治って安定するまで3ヶ月かかるからそれまでバーベルにしておきなさいと言われたのでそれに従う。この状態だとあまり見た目が良くないので早く変えれるようにならないかなと思っている。

暴露、あるいは欲望の囚人による毒矢

 以下はそにっくなーす氏の『暴露』という日記文学に触れて瞬間的に自動筆記した文章である。昨年11月の文学フリマにて購入し読み終わる前に突発的に出来上がったものであったため読み終えた後に何かしら客観的なわかりやすさを施す予定だったのだが、氏の輝かしい無垢性に敬意を表してあえてそのまま公開することにした。

 彼女がいみじくも元彼から引き出した「欲望の囚人」という評価にふさわしい生理的受難、白衣の内的原罪がそにっくなーす氏の手によって惜しげなく公開されたこと、これはひとつの事件だった。少なくともぼくの中ではなにかしら解決を要する体験として記憶されることになるピュアネスの毒矢であった。

 欲望は抑制されてはじめて欲望となる。欲望が欲望になる瞬間とは、自分が欲望から離れたときだ。それは実際には欲望そのものであった自分自身から遠ざかってしまったときなのだ。他者の目を借りて目撃した自分自身の姿は、それまでと同じようには見れなくなっている。そして欲望に手錠をかけるのだ。自覚された瞬間から欲望は異物として世界に存在してしまう。欲望が自己である限り、遠ざかっていく自意識は疎外感に悩まされるだろう。生の中心点はあくまでも欲望なのだ。

 彼女の特異性はここにおいて理解される。一見、彼女もそのように自己から遠ざかっているように見える。しかし彼女は欲望を俯瞰しない。欲望を異物として手放すことがない。

もっともっとしっかりものになりたいけれど、このゆらぎ具合 わけわかんなさと 不安定さが すこしでも キミの目を惹くのならば わたし このままでも いいかなーって 思っているよ

 この軽やかな詩的情緒にそれは現れている。おそらく何の気なしに書かれたであろうこの文章に、ぼくは生の脈動を感じ取った。自分自身から遠ざかるように見えた彼女の向かう先は欲望(つまり無垢なる生)の中心であった。そこから発射されることばは日常の喜怒哀楽を鮮やかに瀉血していて思わず目を背けてしまいそうになるほどだ。

 おそらく合理性という悪夢に向けて拳銃を祈るしかない日常に鮮やかな生を虐待され続けている2120年頃の好事家はこの白衣の黒ナースが100年前の日々をまさに音速で駆け抜ける様をまざまざと夢想することを禁じ得ないであろう。そしてそれは生そのものを禁じられた遊びとして義務の鳥かごに自ら閉じこもる人々の人間自身、つまり好奇心と生に衝撃的なレゾンデートルを発熱させ、歓喜の咆哮を促すことだろう。

 

 語られた固有名詞がいちいち魅力的に見えてしまうような語り手がいる。なぜ魅力的なのかといえば、欲望のばねで飛ばした感情の矢が不純物の追いつけないスピードでこちらに突き刺さるからだ。

 その矢をそにっくなーす氏もたしかに放っていたのだった。

 貯金をすることにした。そのためにまた労働を始めた。社会的な意味合いは無視することにした。これはぼくがぼくとして生きるために必要なものを集めるための労働だ。ぼくの関心に制限をかけないための労働だ。自由を欲するときに人は不自由であるのだ。自分の関心に疑いを挟まないこと。そしてその関心から発する行動に確信を持つこと。これらが自由の要件だとぼくは思っている。自由は歓喜と熱狂の残骸だ。追い求めるものじゃない。

 労働は嫌だけど、退屈するのはもっと嫌だ。わざわざ長生きする気にはなれないが、いま死ぬことを全身で喜べないのと同じようなものだ。ぼくは歓喜と熱狂を欲するのだ。退屈を殺すために。

意味について

 加藤郁乎が牧歌メロンのあとがきで「意味なんかどうだっていいのである」と言っていた。2013年にそれを見て以来、無意味への階段を踏み外しつつ生きてきたわけだが、この辺でもう一度意味について検めることにする。

 本来すべてが無意味なのだ。意味は自分が設定した目的に対してどのように関わりがあるかという色相環に過ぎない。つまり個人的なものだ。「本来無意味なものが個人的にはなんらかの意味を持ちうる」という形でしか意味は発生しない。同じ「無意味なもの」に多数が意味を見出すことができると、その「無意味なもの」に人気が出てくるというわけだ。世の中人気のあるものはいろいろあるけれど、最たるものは貨幣だろうと思う。貨幣には「相応の買い物ができる」という意味を大多数の人が見出している。ではなにも買うことができないとしたら? 多くの人にとって意味を失うことでしょう。でもコレクターなどの好事家にとってはそのゆえにこそむしろ元々その貨幣が持っていた以上の価値があるかもしれない。小さい子供にとっては意味をもつ子供銀行券などというものもあった。

 SMAPの解散でふさぎこむ人もいれば、「君の名は。」で優勝し続ける人もいる。大森靖子の活動に喜びを見出す人もいれば、かれこれ20年近く続いている透牌麻雀*1の進捗を追い続けている人もいる。これらはすべて個人的に見出した意味に過ぎず、興味のない人にとってはそのどれもに意味がない。そして大事*2なのは「すべてが無意味だ」ということではなくて、「意味は個人的なものである」ということだ。

 あらかじめ設定された誰かの意味に従うことが世間では常識的といわれるのだけれど、まさか常識的に振る舞うために生きているのだとは思えないし、そんな風に考えている人はひとりもいないだろうとも思う。そう考える人にとって、あえて常識的に振る舞うことの意味はもうない。

*1:雑誌「近代麻雀」で連載中の漫画『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』内の勝負。

現在連載中の「鷲巣麻雀編」に至っては、作品内の設定では半荘6回の勝負であるが、「鷲巣麻雀編」が開始されてから17年以上経過した現在(2015年現在)でも決着が着いていない。

アカギ 〜闇に降り立った天才〜 - Wikipedia

*2:自分が迷いなく生きるために大事だということ

関係性について

 これほどまでに「死にたい」という言葉がありふれている世の中でまだ「おまえはひとりで生きてるとでも思っているのか」などとのたまう人間があるが、ひとりで生きていると思っていない輩が社会を窮屈にしている気がするのはなにもぼくだけではあるまい。人がひとりで生きているのは当たり前のことである。見てわからないのか。

「じゃあおまえは何人で生きてるつもりになっているんだ」などと言い返そうものなら「屁理屈を言うな」などという理不尽の定石をロールプレイされてしまう恐れが出てくるため避けるが、たとえば死にたい人の代わりに生きることのできるような人間などはいるわけがないのだし、仮に「ひとりで生きていない」彼がすべての人から無視されたとして、彼は自分が消えてなくなるとでも思っているのだろうか? それでこの手の悪霊が成仏してくれるのなら話が早いのだが、そういう風にはできていない。というかむしろその「自分はたったひとりである」という自覚から偶像でない生の自由が発芽するのだ。

 人は人に支えられて云々などという道徳の教科書あたりからくすねてきたような物言いは「人はひとりで生きているのだ」という覆せない前提の後に出てくる無用な後日談である。必要であればその都度ひとりで生きている人間が自分の力に応じて他者の支えを獲得していくのである。<支える - 支えられる>という従属関係が発生するのなら、意識的にせよ無意識的にせよそうならざるをえない。支えられる側は、金を払う、親しくする、空気を読むなどその時々における種々の条件に応じてしかその支えは得られないのだから「支えられて生きている」ということが何かしらの前提にくることはない。支えられているからといって振る舞いを制限されるいわれはないのだ。条件に沿う気がない場合はその支えを放棄するだけである。

 ただし<支える-支えられる>関係から解放された関係性はないわけじゃない。

 それは、年収や容姿や学歴など見つけようとすれば無限に見つかるような余計な自意識に汚されていないのらねこ的少年少女の、純粋に楽しさだけに導かれた麗しき友人関係のような関係性*1である。ゆくゆくは花開くであろうその関係性を包含した種子を含めてもいい。

 彼らにおいては自分が楽しみたいがために相互に相手を利用しあうのである。AはBといると楽しいからBと遊ぶのであり、Bもまた同様である。AはBを気遣って誘うのではなく、Bは断れないから誘いを受けるのではない。AもBも自分のために誘い、自分のために応じるのである。そこには<支える - 支えられる>という従属的関係の欠片すら見つけることができない。*2

 ぼくはそういう環境に遊んでいたいし、その麗しき関係性を見た後であらためて目を戻すと懐中電灯に照らされた不審者のように異物感が鮮明になるすべての従属的な関係性から独立していたい。

*1:スローガン的に記述するなら「だれにも従わず、だれも従わせず、序列を導入しようとしない」関係性ということになる。

*2:こういった関係性はマックス・シュティルナーのいう連合に当たる。

黒いユーモア選集 上巻

 

《知的なユーモアが爆笑に変えてしまうことのできないものは何もない。虚無さえも爆笑に変えてしまう。……笑いは、人間の、放恣にまで至る最も豪奢な浪費の一つとして、虚無とすれすれのところにあり、われわれに担保として虚無を与える》*1

 ブルトン編『黒いユーモア選集』の上巻を読んだ。例によってブルトンお得意の奥歯にねずみが挟まったような気が散った文章で<黒いユーモア>が結局何だったのか判然としないけれども、上に引用した誰の言葉だかわからない文章*2からしてすでに健全な笑いでないことがわかる。爆笑という語はこの場合、訳として不適当な印象を受けるが、健全な、つまり明るい笑いには照らすことのできない暗がりにまでマッチ売りの少女が火にみた夢ほどの笑いを持ち込むことはできるだろうことは容易に想像がつく。<黒いユーモア>ということばについては、ユーモアが知的になればなるほど白痴に似てくるところに生じる笑いのことなのだろうというあてにならない第一印象でひとまず適当に納得しておく。

 意外と有名な作家が並んでいてその半数近くが親しみ深い名前だったため目次を見たときにはなんとなしに高揚した。シュルレアリスム以前の作家ばかりで作家同士の共通項もシュルレアリスムとの関連も一見してなさそうに思えるのだが、読んでみるとシュルレアリスム的な抵抗精神の背骨がうっすら見え隠れしていた。それでもボードレールフーリエニーチェを同じ括りで語りうるというのは新鮮だった。

 しかしそのわりに全体の印象としてはたいしておもしろくなかった。少なくとも目次を見たときに抱いた期待値にははるか及ばなかった。それでもスウィフトやリヒテンベルク、フォルヌレ、アレーあたりを読んでいるときは口角から幸せがにやついて溢れてきたし、いま書きながら聴いているベートーヴェンのピアノ協奏曲*3からもくすぐられるようなユーモアの伴奏がサブリミナル的に聴こえてきている。そんなわけで、虚無が堂々と同じ晩餐の席についているようなぼくのこの薄暗い世界も相変わらず黒いわりには幾分ぶよぶよしてきたようなので、予定通り下巻も読むことにする。

*1:

*2:引用した箇所に続けて「と言った者がある。」と書かれているのみ。誰の言葉かは明記されていない。

*3:聴いてるのはフライシャーの方だけど、動画のアバドの方でいうと9:30あたりでなんだか愉快になった。そのあとも何箇所かあった気がするが全部は覚えていないので割愛。


ベートーヴェン: ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15 ポリーニ / アバド / ベルリン・フィル

 

悪の哲学

 レフ・シェストフの『悪の哲学』*1がのらねこ本*2だったのでメモ。

 この本でロシアの哲学者シェストフは、ドストエフスキーニーチェが辿ってきた人生や著書を元に彼らの思想を論じている。両名には、人生の前半において一定の成功を収めつつ順調なスタートを切り、その後ある時期を境にそれまでの自己の信念を覆す思想(地下生活者の思想)を持つようになるという共通点があった。ドストエフスキーはおそらく晩年に至っても前半生の思想と後半生の思想とのあいだで引き裂かれたままだったが、ニーチェは地下生活者の思想を自らのものとし、以前の自己の思想につながるものを片端から糾弾した。地下生活者の思想というのは、簡単に言うとエゴイズムであり、本書でも度々引用されている、ドストエフスキー地下室の手記*3

「世の中が消えてなくなるか、それとも、私が、お茶を飲まずにいるか? 私は、世界が消えてなくなってもいいと言いたい。ただ、私がお茶を飲んでいられるのなら……」

という価値観のことである。

「私」がいなければ世界などありえないのだということに一度気づいてしまったら、道徳も科学も宗教も思想もただの玩具に過ぎないことが露見してしまう。信じるに値するものがどこにもなかったのを知った後にまだ生が余ってしまっているような悲劇の人間にかかれば、上に引用したような表現でさえ誇張なく用いることができる。そのような人間にとって世界など知ったことではないのだ。彼にとってあらゆるすべてが彼の上に生じたイミテーションでしかない。一点の曇りもなく心からそう思っているのである。そうでないとしたら「私」が退場した後、世界は一体どこにあるというのだろう?

 ドストエフスキーは代表作があまりに長いので敬遠してほとんど読んでなかった*4が、「まんがで読破シリーズ」にあった彼の小説*5をたまたま直前に読んでいたおかげで、キリーロフやラスコーリニコフなどやたらと引き合いに出されるキャラも半分くらいはわかった。語られている人物の心理をひとつひとつ展示するようなシェストフの書き方のおかげで、ドストエフスキー作品のドラマチックさの秘密を少し覗けた気がした。シェストフ自身も悲劇的な語りにかけてはなかなか魅力的だった。

*1:

悪の哲学 - 絶望からの出発 (1967年)

悪の哲学 - 絶望からの出発 (1967年)

 

 

*2:のらねこ本とは、下記で述べたようなのらねこの生きざまに近似する思想に類する本のことです。

mabutast.hatenablog.com

*3:

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

 

 

*4:地下室の手記』『おかしな人間の夢』だけはずいぶん前に読んだ。

*5:

罪と罰 (まんがで読破)

罪と罰 (まんがで読破)

 

 

悪霊 (まんがで読破)

悪霊 (まんがで読破)

 

 

カラマーゾフの兄弟―まんがで読破

カラマーゾフの兄弟―まんがで読破