1374 ムッシュー・テスト


小説というには奇怪な作品。ムッシュー・テストという特異な精神性の記録として読む他ない。ムッシュー・テストは「すべてが可能でしかも何もしない」でいるのを最上だと考える尊大な男だ。この男がヴァレリーの内面の理想だったようだが、その感覚には覚えがある。ヴァレリーはランボーとマラルメに衝撃を受けたらしいが、そもそもボードレールの理想としたダンディズムがそういう韜晦的な志向を持っているということもあり、フランス象徴主義に親和性がある人間は多かれ少なかれそういったことを考えるのかもしれない。「すべてが可能」であるということは、すべてを精神の支配下に置くということとほとんど同義だと思うが、その一片が「明日になったら欲しがるものを、いま記憶に残しておくこと」を望む態度にも表れている。

 

■「友の手紙」46〜48
パリにいる自分とパリを離れた自分とでは、返事、動き、表情などの日常的で些細なことさえ変質し、自然な反応が自然なものではなくなってしまうという素朴な観察から、「わたしたちは、わたしたちを知らぬ多くのものによってつくられているのではないかしら」というほとんど確信めいた疑念の形で個の曖昧性を指摘している。つまり、パリにいる自分とパリを離れた自分とではもはや別の様式で存在しているのだろう、ということだ。

自分(より正確には自分と一体だと思っていた精神)が一個の人間存在に留まるものではない、という感覚はその後も現れる。

 

■「ムッシュー・テストとの散歩」118
「わたし」は「この群衆の断片にはなるまいとねがいながら」も、「この場の厖大な群衆、過ぎゆく豪奢と」一体になってしまうのを止めることができない。しかしながらこれは個が失われてしまったということではない。自分というものが思っていたよりも領域の曖昧なものだったという発見であり、自分の認識している他者は他者ではなく、むしろ自己に属するものだったということだ。精神を緻密に観察することでなされたこの発見は、ムッシュー・テストではなく、友人である「わたし」のものなのだが、「わたし」はムッシュー・テストの鏡像として出現している。

一体となった散歩道全体に溶け合った個々の事物が、それぞれその全体の中に消えていくようなイメージでこの短い文章は終わるのだが、これが非常にイメジャリーに富んでいて、鮮やかなギャロップがすべてを巻き込んで目の前を駆け抜けていく姿がありありと感じられる。

始まりであり終わりである絶えまのない力が、人びとを、人びとの断片を焼きつくす、疑惑を、歩いてゆく章句を、娼婦たちを焼きつくす、絶えざる色彩のギャロップがその場の情景のすべてを、いや消し去られた瞬間までを、何か独特な空虚のなかへと運び去って……

 

 

<目次>

ムッシュー・テストと劇場で
友の手紙
マダム・エミリー・テストの手紙
ムッシュー・テスト航海日誌抄
ムッシュー・テストとの散歩
対話
ムッシュー・テストの肖像のために
ムッシュー・テストの思想若干
ムッシュー・テストの最期
訳注
解説