個人日誌2021/01/01

日記を書き始めようと思います。
学校の人はこの事を知らないので、嫌な事とかも全て書くつもりです。

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新年を迎えた。昨年の終わりごろから、書くという行為がぼくにとってなにかしら重要なことに思えてきたので、その一つの形式としてまた日記を書き始めることにした。行為が重要なので、読者や目的などあらゆる対象を前提にしていない。それらを前提にするかどうかさえ考慮の外におきたいと思っている。これは原則というものを一切持ちたくないという意味だ。

冒頭の宣言は『絶望の世界』という昔のネット小説の冒頭であり、タリウムで母親を毒殺した少女のブログの冒頭でもある。それを踏襲した。ちょうど日記を描き始めるにあたってたまたま思い出したからだ。

たまたまというのは少し不正確だったかもしれない。先日ふと『タリウム少女の毒殺日記』という映画が観たくなって、ネットを漁っている内に彼女のブログを読むこともあったというわけだ。ぼくはこの映画を一回観たことがあった。それ以来たびたび思い出しては諦めることを繰り返している。この映画は現状のところDVDにもなってないし配信もされていない。どうにかして再び観たいと思っているのだが、配信するにあたって何か問題があるのだろうか。とりあえず一人分の需要がここにあるということを書いておく。

とはいえ、この映画はそんなによかったのだろうか。映画自体はそれほどの出来でもなかったかもしれない。だが少なくとも主人公の不器用な明晰さは魅力的だった。

主人公は、グレアム・ヤングという殺人鬼を尊敬していて、学校ではいじめられていて、化学の知識が豊富で、薬物を使ってみたいと考えていて、それを母親に試してみた普通の少女だった。ぼくにはこの少女が異常だったとは考えられない。異常だったのは、彼女の目に映る現実の方で、これはあくまでも主観的なものだから客観的に同じ環境を用意しても再現性はないだろうと思われる。彼女は若い女がロックスターに憧れるようにグレアム・ヤングに憧れていて、いじめにあった人間がそうあるように多数者の感覚からずれていて、学者が理論を裏付けたいと考えるように実験を行いたいと思っていた。これが彼女が普通の少女だったということの根拠だ。「普通の人間」なる人物はこの世に存在しないが、異常者だと決めつけた瞬間にその先が閉ざされてしまうので、正常と異常との間に連絡不可能な壁があって、その異常の側にいるのではないという意味で普通の少女と言っている。

彼女が不器用だというのは一般的なバランス感覚に欠けているからで、自分の関心に対する比重が他の事柄よりもずいぶん重いということだ。明晰さは自分の関心に集中した結果だろうと思う。つまりはエゴイストだということだ。殺人犯を称揚する意図はないが、本当に生きているのはエゴイストだけだと思う。世間一般に了解されているのと、ぼくが使用しているのとで、エゴイストという語の意味合いに齟齬があるような気もするので、気が向いたらエゴイストについて書くかもしれない。簡単に書くなら、マックス・シュティルナーの言うエゴイストであり、ニーチェでいえば超人の概念に近い。つまり現実には到達不可能な努力目標のようなイメージであり、当然タリウム少女はぜんぜん理想的なエゴイストではないし、ただ他のキャラクターよりもエゴイスト的な要素が感じられやすかったということだ。

今日はそこそこまともな正月を過ごした。初詣に行ったり寿司の出前を取ったりして楽しく過ごした。初詣に出掛ける際に見かけた子供が印象に残っている。

ぼくの少し前を歩いていた家族の一員であるその子は、固い意志を持ってベビーカーからずり落ちていた。彼は何度も何度もずり落ちた。咄嗟にシーシュポス*1を思い出したが、この場合、罰を受けているのは子供ではなくて、ベビーカーに子供を乗せようとする母親の方だろうと思い直した。最終的には母親が子供を抱えて歩いていた。

*1:シーシュポスは巨大な岩を山頂まで運ぶという罰を受けていて、山頂近くになると岩が転がり落ちる。それが永遠に繰り返される。