個人日誌2021/01/03

屋根裏部屋に隠されて暮す兄妹、
腹を上にして池の底に横たわる百五十匹のメダカ——
脈絡なく繋げられた不気味な挿話から、
作家中田と女たちとの危うい日常生活が鮮明に浮かび上る。
性の様々な構図と官能の世界を描いて、性の本質を解剖し、
深層の孤独を抽出した吉行文学の真骨頂。
「暗い部屋」の扉の向こうに在るものは……。谷崎賞受賞。

吉行淳之介の『暗室』*1を読んだ。冒頭に引用したのは裏表紙に書いてあった内容紹介だ。この紹介文に興味をひかれて購入したのだが、想定していた話とは趣が違っていた。簡単に言えば、主人公が何人かの女と簡単にセックスをして、関係性の移ろいや思索を経て自分の気持ちの変化に戸惑うみたいな話だった。

陽キャの数多ある実体験からある種の倦怠を感じつつ、やがて暗い部屋に踏み込んでいくという形式は、おそらくライトなマジョリティにはウケのいい水路なのだと思うが、ぼくの好みとは違っていた。「ライトな」とあえて言ったのは、彼らには他にいくらでも選択肢があるからだ。他に選択肢がある人間は、他の選択肢の影に自分をキープする。自己をどこかに保存している。ひとつを選ぶ時、彼らは自分に嘘をついている。それ以外を選びたかった自分がいるからだ。彼らはどうしても100%同意できない言い訳をせざるをえない。それをなんとかごまかしてひとつを選ぶ。他の選択肢をキープしたままではどうしても妥協せざるを得ない。彼らはなにも捨てないのだから。彼らはなにも賭けないのだから。それが気に入らない。

ぼくは、陰キャの数少ない実体験に何十層にも自己反省を加えて生まれた異様な世界受容の思想とそこから反映されたおぞましい現実への打破のために打って出る賭けのような話が読みたい。こっちはあくまでも自らの全実存を賭けていてその点において嘘がない。選べる道がない上で自らの道を開拓していくような精神をぼくは感じたい。結果的に彼の道はそこにしかないような道を歩むこと。ここには自我と運命との一致がある。

「運命に抗う」といった言葉にはもはやリアリティがない。はじめにこのように表現した人はどうだったか知らないが、現代においては(主に映画やアニメなどの分野において)軽々しく扱われすぎているように思われる。この場合の運命は単にシステムや人間社会といったもので、運命という語に釣り合わないくらいに矮小化されすぎている。

自由意志と対置されるような運命はここではまったく関係がない。自由意志と運命は同じオブジェを違った角度から眺めた程度の違いでしかない。そういう認識がなければこのことは理解できないかもしれないが、もし最高の自我と呼べるものがあるとすれば、運命を引き連れて歩むようにしか表現されないだろう。

ニーチェがよかったのは「運命愛」という概念を、彼の個人主義的な思想に冠するように置いたからだ。彼が「神は死んだ」という言葉を持ち出した時、まだ「運命愛」ということは言ってなかったと思うが、おそらくシステムや人間社会などはとても運命などとは呼べないほどみすぼらしいものだということも示唆していたと思う。

*1:

暗室 (講談社文芸文庫)

暗室 (講談社文芸文庫)