個人日誌2021/01/08

夢を見た。なんだかいろいろ見たけど最後に見た夢のインパクトが強くて、他の話はあらかた忘れてしまった。覚えてるところだけ書く。

  • パズルゲームで5×5を一回で消すにはどうすればいいかを考えていた。5個並ぶと消えてしまう。4つ積み上げた状態の塊を4列作って、その後どうしたらいいのか分からなかった。ゲームの見た目はテトリスに似ていた。ルールはぷよぷよに近かった。考えているうちに別の夢に移行した。
  • 三人並んで布団に入って話をしていた。ぼくは右を向いていた。後ろに女が二人いた。反対側の女が何か話していて「森の棺を彷徨って」と言った時、強烈なイメージが目の前に広がった。そのイメージがかなりリアルで、暗い森の中を実際に歩いているような感覚だった。そのイメージの中で本の表紙が見えた。すぐそこにあるかのように文字まではっきり見えた。湯屋昭一郎の『幻想の焦点』という本だった。「本がある。ここに。湯屋昭一郎の」と言うと、後ろから二人が覆い被さってきた。反対側の女がぼくの顔の前に手をついた。ちょうどそこに本があった。そこにはたまたま現代詩手帖が置いてあった。それだけのことだったのだが、なぜかぼくのイメージが具現化したと思ったのか、二人はやたら驚いて大声を出した。それがおもしろくて笑った。その拍子に目が覚めて、夢の外でも自分が笑っていたことに気づいた。

感じていること、考えていること。ほんの些細な、すぐに忘れてしまうようなことを記録したい。

大まかな感覚でいえば自分が感じたり考えたりしてるように思うけれども、より細密に眺めていけば、実はぜんぶ受動的な現象なんじゃないだろうか。

たとえば東京から京都に行くときにどういうルートを通るかは自覚的に決定されているように思う。でもこれがちょっとトイレに立つ時とか、横断歩道を渡る時とかにどうやって行こうとは考えない。こういった場合に意識の介入はほとんどないように思えるが、見逃されてる意識の動きがあるはずだと思う。それを捕まえるのが第一歩で、その意識の発端を見つけるのがその次だ。つまり意識の無根拠性の尻尾を掴みたい。

これはほとんど瞑想みたいなものだけど、別に座っている必要はない。上の例のように歩いている時でもいいし、そうでなくてもいい。とにかく自分の感覚の単位を細かく観察していきたい。